青木は顔が挙げられなかった。巻子には聊か自由主義者らしいところがあったが、まさか共産党員だとは思われなかったし、ましてやそのスパイだとは思われなかった。そして今、青木に提出されてる仕事は、スパイに対する逆スパイの行為だったし、而も色情を以てするそれだった。彼はウイスキーをあおった。
「君の淮河治水工事の話なんか、なかなか立派だったよ。」
 そして突然、石村は哄笑した。青木は顔を赤らめ、そして慌てた。
「いえ、あれは、あの時だけの思い附きで、例えば、万里の長城にしても同じことです。」
「なに、万里の長城がどうしたって……。」
「延々と三千キロに近いあの大城壁です。辺境蛮族の侵入を防ぐための大工事ですが、あれだって、淮河の治水工事と……。」
 青木は言葉につまった。
「そうだ、日本にも一種の万里の長城が必要なんだ。たとえ徐々にしても、国防の背骨となるべき軍備が必要だ。ところが、その再軍備の方法について、諸説まちまちで、一向に纒っていない。第一、旧陸軍方面と旧海軍方面との、意見の喰い違いが甚しいし、そのほか各方面で勝手なことを主張しているんだ。国論の統一、万里の長城を築くことが、目下の急務さ。自由主義とか、平和主義とかは、問題にならん。そんな隙間から、敵に乗ぜらるることになるんだ。」
 青木はすっかり腐ってしまった。なんだって今、万里の長城なんか持出したのかと後悔しても、もう追っつかなかった。
「すべて万里の長城のためさ。先程言ったこと、やってくれるね。喜久家の費用は僕が引受けるから、いいかね。」
「とにかく、よく考えてみましょう。」
 それだけ答えるのが、青木には漸くのことだった。

 夜の街路を、青木は飄々乎と歩いていった。通り馴れた途筋で意識せずとも自然に足は一定の方向へ動いた。或る屋台店で、鰻の頭をかじりながら焼酎を飲んだ。それからまた歩いた。地階への狭い入口がぽかりと開いてるのを見定めて、よろよろと降りていった。幾つかの店に区切られてるその一番奥に、壁に沿って白木の卓が並んでる飲屋があった。端っこの隅の卓で、丸田が日本酒を飲んでいた。石村証券の社員である。青木はその前に行って佇んだ。
「あ、いらっしゃい。ここでよく逢いますなあ。」
 青木は黙って彼の顔を見ていた。
「どうかなすったのか。顔色がよくありませんぜ。」
 青木は薄笑いを浮べて、腰を下した。差された杯を受けながら、丸田の顔をつくづくと見た。
「あんたは会計の方の係りだから、知ってるでしょうが、石村証券の経営状態は、今のところ、どうなっていますか。」
「赤字ですなあ。」
「それじゃあ、退職金も出せませんか。」
 五十過ぎた律儀な丸田は、妙な顔をして青木を眺めた。
「退職金について、石村さんは約束したことがありますね。」
 それは事実だった。石村商事を石村証券に切り換える時のことだった。どうせ当分は仕事もあまりあるまいが、諸君の生活は僕が保証する、と石村は社員たちに誓った。そして退職金については、一年間の勤務につき一ヶ月分の給与の割合で出すから、黙って仕事をしていてくれ、と約束したのである。
 丸田はなだめるように言った。
「会社の方はだめですが、心配はいりませんよ。私にはよく分りませんが、商事時代にたくさん儲けていますし、石村さんの資産は相当なものだと思われるふしがあります。社員の退職金なんか問題じゃないでしょう。」
 青木はもう外のことを考えて黙っていた。
「何を考え込んでいますか。景気よくやりましょうや。」
 丸田は酒を誂えて、青木にもすすめた。
「いったい、何が問題なんです。」
 間を置いてだったので、丸田は眼を丸くした。
「石村さんにとって、何が問題なんですか。」
「そんなことは私には分りませんね。」
「万里の長城です。日本に万里の長城を築こうというんです。だから、ばかげてるじゃありませんか。それを誰が言い出したかと言えば、この私です。だから、ばかげてるじゃありませんか。それもこれも、みな酒のせいです。だから、ばかげてるじゃありませんか。」
 丸田は怪訝な面持ちで黙っていた。
「いったい、ひとをやたらに疑ったり、ひとをやたらに信じたりするのが、間違いの元です。だから、何でもないことがスパイに見えたり、何でもないことがスパイのスパイに見えたり、大間違いの結果になります。ばかげてるじゃありませんか。私は断然嫌ですね。みな酒のせいです。だから、私は酒をやめますよ。」
 そして青木は立て続けに酒を飲んだ。
「まったく、今日はあんたはどうかしていますね。」
 覗き込んでくる丸田の顔を、青木は眼を大きくして眺めた。
「あ、丸田さんでしたか。」
「これは、御挨拶ですね。今迄誰と話をしていなすったつもりですか。」
「え、何か言いましたか。聞き流しておいて下さい。少し気持ち
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