払いの話なんかは、これは情報とも言えないからね。」
 青木は頭を掻いてみせた。
「まったく、私はいつも酔っ払ってばかりいて、自分でも情けないと思っています。」
「情けないどころか、大した腕前じゃないか。酒ばかりでなく、女にかけてもそうだろう。」
「え。」
 青木は顔を挙げて、石村の眼を見た。
 石村は眼をくるりとさして、揶揄するように微笑した。
「いいことを聞かしてやろうか。君はあれからまた、今西を喜久家に連れ込んだね。」
 青木は口が利けなかった。今西巻子、それは石村証券の女社員だった。
「僕が知らないとでも思ってたのか。迂濶だね。喜久家は僕がよく飲みに行く家だよ。君がいくら内緒にと頼んでも、僕の耳にはいらないわけはないじゃないか。」
「済みません。金が無かったもんですから、つい、あすこを利用する気になったんです。然し、あすこの払いは、ボーナスで済ますつもりでいます。」
「金のことは気にしなくてもいい。僕が払っておいてやった。上海にいた時と同じことさ。然し、大事なのは……。」
 言いかけたままで、石村はウイスキーをなめながら考え込んだ。
 上海にいた時、それは戦時中のことで、石村は特務機関の仕事をやっていた。静安寺路の可なり立派なアパートに住んで、主として隠匿物資の摘発回収に当っていた。白系ロシア人や中国人をも手先に使っていた。その当時、青木も石村の下で働いていたのである。石村はしばしば本国に往来していて、終戦の時には丁度東京に帰っていた。運がよかったのだ。やがて半焼のビルの空室をかり受け、石村商事を開いて、軍関係やその他の闇物資で巨利を得た。彼のところには、旧軍人や旧軍属が集まってきた。青木もその一人だった。終戦直後、北京から朝鮮を迂回して、命がけの冒険旅行をやったのである。闇物資の仕事が少くなって、石村商事は石村証券と看板を変え、人員も次第に少くなり、そして今日に至ってるのであるが、石村は心ひそかに期するところがあって、新たな活動を始めてるようだった。
「青木君。」
 石村は突然呼びかけて、青木の顔をじっと見た。
「率直に言おう。君はあの今西巻子から、何等かの情報を掴むつもりだったろうね。」
 青木にとっては思いがけない言葉だった。そんな意図は全然なかったのである。彼は呟いた。
「それはちと、明察すぎますね。」
「白ばくれなくてもいいよ。或は僕の思い違いかも知れないが、然し、あの時の君の態度は、どうもそうとしか受取れなかったからね。」
「へえー、どんな態度ですか。」
「中国で目下進捗してる淮河の治水工事などを持出して、さんざん今西の機嫌を取ったじゃないか。」
「淮河の治水工事ですって……。」
「そうだ。あれこそ本当の民衆のための建設工事だとかなんとか吹聴して、今西の気に入ろうと努めたろう。なにか下心あってしたことに違いない。」
 青木は額に掌を当てて、回想してみた。あの時も、後で冷汗の出る思いだったが、今になっても、後味の悪さは同じだった。もっとも、すっかり酔っ払ってからのことだったので、詳しくは覚えていなかった。
 あれはたしか、日米安全保障条約による行政協定が締結された頃のことだった。石村は主な社員たちを喜久家に招待して御馳走した。席上、石村一人が主として饒舌った。要旨は、アメリカ一辺倒に対する非難と、再軍備の主張だった。警察予備隊増員の計画もあるが、あのような組織では、たとえ如何ほど増員し、どのような装備をさしたところで、精神がだめだから、国防の万全を期することは出来ない。たとえ徐々にせよ、再軍備を行うことが、真に独立を確保する途である。それによって、たとえ徐々にせよ、アメリカ軍隊を撤退させるべきであって、何もかもそして常に、アメリカにのみ頼ろうとするのは、それこそ亡国根性である……。そのようなことを石村は威勢よく饒舌った。ふしぎに、憲法の改正とか日本共産党の問題とかは、一言も出なかった。皆が彼に相槌を打った。酒の勢も加わっていた。
 そういう空気に、青木は反撥を感じたようだった。これにも酒の勢があった。そして淮河の治水工事を持出した。どこで読んだのかはっきり覚えていなかったが、へんに頭の中にこびりついていたのである。
 淮河は、河南、安徽、江蘇の三省にまたがる大河であって、二千年間に約千回もの大※[#「さんずい+巳」、第3水準1−86−50]濫を起している。一九三一年の大洪水には、罹災者二千万人にも及んでいる。そして一昨年夏の大洪水を契機に、中共政府は、淮河の大治水計画を決定した。五カ年内に完成する計画だが、工事参加民工は二百二十万を超えるもので、その流域の五千五百万の人民は永久に洪水の脅威を免かれ、中国の総耕地面積の七分の一に当る田畑が灌漑されることになっている。昨年七月にはその第一期工事が完成され、築堤、浚渫
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