めに、冗談を仰言ったのではありますまいね。」
「冗談というと……。」
「スパイ云々、情報云々……あのことです。」
「違う。絶対にそんなことはない。その証拠には、君に約束しよう。いつでもまた復職したかったら、やって来給え。その代り、君の方からやって来ない限り、僕の方からは手を差伸べないからね。その点ははっきりしておこう。」
「よく分りました。」
 もう言うべきことはなかった。石村は辞職願を仕事机の抽出しに納めた。
 青木は暫く考えてから、切り出した。
「お願いしたいことが、二つあります」
「ああ。遠慮なく言ってくれ。」
「あの、今西巻子は、共産党員でもシンパでもありません。ましてスパイではありません。このこと、了解して頂けましょうか。」
「君はそう信ずるかね。」
「ええ、信じます。」
「それでは、僕も君の言葉を信ずるとしよう。ところで、君はあの女を愛してるのかね。」
「そんなことはありません。酒の上の過ちです。私には妻があります。」
「だが、あの女はどうも、君の側の陣営の者で、僕の側の陣営の者ではなさそうだね。」
「それは、私にはむしろ逆ではないかと思われますが……。」
 石村は首をひねった。その時、青木ははっきり気附いた。今西巻子に事よせて、二人ははっきり絶縁したのだった。気持ちに何の後腐れもなくさっぱりとした。
「最後のお願いですが、お約束通りの退職金を、今日頂けますまいか。」
「ばかに気が早いね。惜別の宴でも、一夕、社員たちと一緒に設けたいんだが、どうかね。」
「そのようなこと、気が進みません。」
「いやにはっきりしてるじゃないか。」
 石村は仕事机の方へ行って、何か帳簿を調べ、それから小島を呼んで、丸田の方へ紙片を持たせてやった。
 暫くして、丸田がやって来、青木を見ると、びっくりしたように佇んだが、石村へ封筒を差出し、青木へは会釈しただけで出て行った。
 石村は青木の前へ戻って来た。
「では、これは今月分の手当。これは退職金。退職金の方は小切手になってるが、いいだろうね。調べてみてくれ。」
 青木は金を調べ、前に置かれてる受領書へ捺印した。
 石村は仕事机から戻ってきてから、まだ突っ立ったままだった。青木は金を納めてから立ち上った。
「長々お世話になりました。」
「いや、御苦労さまだった。」
 石村が手を差出したので、青木はその手を握った。その時の石村の凝視
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング