、眼をつぶった。
「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」
 時間をはかっていると、思わぬ時に、襖がすーっと開いて、登志子が顔を出した。幽鬼のような気がして、青木は全身ぞっとし、髪の毛が逆立った。青木は飛び起きてそこに坐り、卓上の品々を体で隠すようにした。もうその時には、寝間着に褞袍をはおった登志子が、彼に取縋っていた。
「あなた、なにをなすってるの。あなた……。」
 青木は黙って彼女を押しのけた。それから落着いて、手首を洗い、オキシフルをふりかけ、絆創膏をはり、繃帯を巻き、その端を登志子に結わかせた。登志子は真蒼な顔をして、口も利けないほど怯えていた。
「ばか、なぜ起きて来たんだ。」
 彼女に見られたのが、青木にはひどく不満だった。
 洗面器の微温湯の中には、薄く血の糸が引いていた。それをじっと見やって、青木は漸く心が和やいだ。
 彼は突然言った。「お前は、僕みたいな酒喰いが、好きか嫌いか。」
 登志子は静かに頭を振ってみせた。ふっくらとした頬に寝乱れた髪の毛が幾筋か垂れ、切れの長い眼がもう笑ってるように見えた。
「よろしい。今のは単にお芝居さ。然し、道具立てがなければ、本当の決心はなかなかつかない。僕は酔いどれの僕自身を殺してやったんだ。」
 ところが、その喜劇のおかげで、青木は風邪をひいて、二日間寝込んだ。

 風邪がなおってから、青木は石村証券へ出かけて行った。途中で鮨屋に寄って、酒を飲み、昼食をした。もっとも、酔うほどは飲まず、ただ決心を堅めるために過ぎなかった。
 階段を昇ってゆき、廊下を一曲りすると、磨硝子に石村証券という金字が浮き出してる扉があった。その前を青木は通りすぎて、次の扉の方へ行った。その扉には、石村という金字がはいっていた。青木は小首を傾げた。三日前には無かった文字である。ちょっと佇んでから、彼はノックした。女秘書の小島が扉を開いた。青木の姿を見て、おや、という表情をした。青木は構わず言った。
「石村さんはおいでですか。」
「はい、おいでになります。」
「来客ですか。」
「いいえ。」
「それでは、取次いで下さい。」
 青木は中にはいって待った。やがて、小島に案内されて、社長室に通った。石村は窓際の事務机の上を何か片附けて、立ち上った。
「どうしたんだ。あちらからはいればいいじゃないか。」
「いえ、今日は、会
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