が悪くなったんです。ここは地下室でしょう。だから、掘割の水面より低いんですよ、汚い溝の水より低いんですよ。だから、むかむかするんで……。」
青木は卓にしがみつき、上体を傾けて、胃袋の中のものをげっげっと吐き出した。
深夜、青木は泥酔してアパートに帰った。だが、泥酔してるのは体だけで、頭はへんに冴えてる気持ちだった。
妻の登志子はもう眠っていたが、起き上って来た。青木は和服に着換えると、不機嫌そうに叱りつけた。
「もう起きなくても宜しい。早く眠ってしまうんだ。僕は大事な仕事があるから、それを片附けてから寝る。うるさいから、起きてはいかん。」
茶の間をはさんで、一方が寝室、一方が四畳半の仕事部屋になっていた。青木は冷えた番茶をやたらに飲んで、仕事部屋にはいって寝転んだ。或る種の蜘蛛や甲虫のことを、彼は頭裡に浮べていた。それらの虫は、大敵が身辺に迫ってくるのを感ずると、頭をすくめ足を縮めて、死んだ風を装うのである。人が指先で突っついても、そうする。そしてずいぶん長い間じっとしている。引っくり返しても、身動きもせずに死んだ真似をしている。敵が遠ざかったと感じてから漸く、這って逃げ出すのだ。
そんなものをどうして思い浮べたのか、彼自身にも分らなかった。そして一方では、胸の中で繰り返していた。「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」
可なりの長い間、彼はそうしていた。
それから起き上った。足音をぬすみ物音をぬすんで、道具立てをした。鋭いナイフ……安全剃刀の刄……アドルムの錠剤……オキシフル……絆創膏……繃帯……。それらのものを室の卓上に揃えた。薬缶に湯を沸かし、洗面器でぬるま湯にして、運んで来た。
座布団を二つに折って枕とし、仰向きに寝そべって、褞袍を胸元までかけ、左手の肱に書物をあてがい、手先が洗面器に浸るようにした。つまり、手首の動脈を切断して、微温湯の中に出血を続けさせ、安楽な死に方をしようというのである。
彼は暫くの間、寝たまま眼をつぶっていた。それから身を起して、安全剃刀の刄を取った。勿論、アドルムを服用したりナイフを使ったりする必要はなかった。再び元のように寝て、用心しながら左手首に形ばかりの傷をつけた。ずきりとしただけで、殆んど痛みは感じなかった。細い静脈が切れて、血が流れだしてきた。その手首を洗面器の中に浸して
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