いで見つめています。
 辰子は堪えきれなくなって、立ち上り、会釈もそこそこに出てゆきました。じっと見つめてる眼を、背中に感じ、外を歩いてる時まで感じました。
 そのことを、会社から帰ってきた恒吉に、辰子は待ちかまえて話しました。
「あの人、気が少し変じゃないでしょうか。」
 恒吉は黙って、辰子の話を聞きました。聞き終っても黙っていました。
「ほんとにおかしいんですよ。」と辰子は囁きました。
「厄介なことになったな。何とかしなくちゃなるまい。」
 恒吉はそう呟きましたが、やがて、晴れ晴れと眉根を開きました。
「うむ、分ったよ。大井の話が、だいたい分ってきた。」
 そして、翌日、恒吉は大井増二郎を呼んで、突き込んだ話をしました。
 増二郎はしきりに謝り、恐縮していました。
「実は、打ち明けて御相談いたそうかとも思いましたが、なにぶん、申しにくいことですし、いろいろ考えあぐみましたものですから……。」
 然し、恒吉から見れば、申しにくいことではなかったのです――罹災の時に、雪子は亡くなり、その葬式もりっぱに済んでいる。ただ、時子の頭に、雪子と同じ子供が池の中にはいっていると、そういう幻想がどうして生れたか、それは不明だが、とにかく、その幻想を取り除けばよいことなのだ。
 恒吉はなんだか腹がたってきました。
「よけいな心配をしないで、ただ、そういう幻を、お上さんの頭から逐い払えばいいじゃありませんか。それくらいのことが、出来ないんですか。」
「それはもう、私もよく考えてみましたが、なにぶん、あの時のことがはっきりしませんので……。」
 そして大井増二郎の語るところはこうでした。――焼夷弾が、ざざーっと降ってきた。至る所にぱっと閃光が起り、爆音が聞え、火焔が流れ、夜は蒼白くなり、次に赤くなり、そしてどの家も一斉に燃えだした。警防団員として警戒に当っていた増二郎は、もう警戒どころではなく、火のトンネルの中をくぐって、自家に辿りつくと、その辺には人影もない。無人の家々がただ燃えている。火の粉を含んだ煙が渦巻いている。それを突き切ると、右往左往してる群衆の中に出た。時子や雪子は見当らなかった。聞いても分らなかった。崖に穿たれた共同防空壕を覗いたが、そこにはもう誰もいない。増二郎は殆んど無我夢中で駆け廻った。そして幸にも、かなり遠くで時子を探し出した。時子はまるで痴呆のようだった。雪
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