か。どこの子供のどういう死体かさえも分りませんでした。
「まったく嫌な話だわ。」と言って辰子は額に皺を寄せました。
恒吉は笑いました。
「うちの池が美しいから、誰かが妬んで、そんな噂を作りだしたんだろう。」
然し辰子にしてみれば、なんだか不気味で、笑って済ませられもしませんでした。噂の元をつきつめたく思いましたが、打ち明けて聞けるほどの懇意な人もありませんでした。昔からの隣り近所の人たちは遠くへ散らばっていましたし、ぽつぽつと、壕生活やバラック生活をはじめてる人たちに、親しいのもありませんでした。思いあぐんだ辰子は、或る時、ちょっとした買物のついでに、大井増二郎の店先に腰を下して、お上さんの時子と世間話をしたついでに、例の噂のことを持ち出してみました。
時子は辰子より少し年下で、ちょうど三十歳でしたが、へんに知能の低いところがあり、偏屈なところがありました。
辰子が笑いながら、噂のことを持ち出しますと、時子は俄に顔色を変えて、口を噤んでしまいました。頬骨の少し張った、鼻の低い、丸みがかったその顔は、蝋細工のようになり、切れの長い眼だけが、作りつけのもののようで、光ってきました。
辰子はなにかぎくりとして、黙りこみました。
時子はじっと辰子を見つめました。暫くしてふいに言いました。
「それは本当ですよ。」そしてはっきり頷きました。「あの池には、子供がはいっております。」
「え、御存じですか。」と辰子は叫びました。時子は低い確実な声で繰り[#「繰り」は底本では「燥り」]返しました。
「あの池には、子供がはいっております。」
「どこのお子さんですか。」
「雪子と同じ子供です。」
雪子というのは、時子の一人娘で、罹災の時になくなったことを、辰子も知っていました。生きておれば今年五歳になるのでした。
「雪ちゃんと同じだといいますと……。」
「同じ子供です。あの池の中にはいっております。」
「同じだというと、どういうことなんでしょう。そして、いつはいったのでしょう。」
「同じ子供です。ずっと池にはいっております。でも、そのうちに出て来ますよ。」
「え、出て来ますって。」
「出て来ます。」
辰子は言葉につまり、息もつまるような気がしました。時子の光った眼が、辰子を見つめたままで、まばたき一つしませんでした。その眼から、涙がほろりと流れましたが、やはりまばたきもしな
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