奇怪な話
豊島与志雄
私の故郷の村中に、ちょっと無気味な隘路がある。両側は丈余の崖で、崖上には灌木や竹が生い茂り、年経た大木が立並んで空を蔽い、終日陽の光を見ることなく、真昼間でさえ薄暗く、肌寒い空気が湛えている。隘路の地面は妙に湿っぽく、落ち散った木の葉がじめじめとこびりついている。而もこの隘路の中、片方に、深さ丈余の小溝があって、覗きこんでも底はよく見えず、ただ処々に、水の淀みの陰欝な反映があるのみである。
この隘路に、夕暮――日の光が消え、而もまだ提灯をつけるには早いという、昼と夜との合間の半端な薄闇の頃、ともすると、上方の茂みを貫いて、中天から、ぶらりと、大きな馬の足が一本垂れ下る……というのである。
その話は、私が幼い頃、祖母や其他の人々からきいた種々の話のうち、一番恐いものなので、今でも頭の中に残っている。夕方、不気味な隘路のなかに、大きな馬の足が一本、ぶらりと垂れ下る、とただそれだけのことであるが、それが変に、想像の中にはっきりした形をとって現われる。
その恐怖と闘うために、私はいろんなことを考えてみた。空をかける天馬があって、一日の疾駆に疲れ、夕方ほっと息をついて休む、その時、一本の足が、丁度隘路の上に垂れるのだと、そんなことを最も多く考えた。然しこの考えは、どうもしっくりこなくて、陰欝な隘路の夕闇の中にぶらりと垂れ下る一本の大きな馬の足だけが、あらゆる解釈や物語から超越して、まざまざと見えてくるのであった。
*
馬の足の話は、いろんな形で、各地に、云い伝えられているものらしいが、その研究は暫く措いて、私はこれに似た事柄を、現実に、而も人間について、経験したことがある。
山陽線を旅していた時のことである。山陽線は、時折、瀬戸内海の景色を車窓に見せてはくれるが、ただそれだけで、いつも同じような山と田圃と町ばかり、そして同じような屈曲で同じ方向に、いつまでも汽車は走り続ける。あんな退屈な線路はない。夜汽車で通るに限る。
ところで、夜汽車というものは、何かしら淡い情緒をそそり、好奇心を眼覚めさせ、猟奇的な感覚に呼びかけるものであるが、それが、二等寝台車では殊に多い。上段と下段と、二列に並んだ寝台が、両側に向い合って、その一つ一つに、見ず知らずの人たちが、一人ずつもぐりこんで、半睡半醒の意識を、汽車の動揺と音響とにゆすられている。引寄せたカーテンについてる、それぞれの番号が、通路のぼんやりした電灯の光に、いやにくっきりと浮出して、それはもう、寝台の番号ではなく、その中の人体の番号でもなく、変に遊離した数字にすぎない。その遊離した数字が、淡い不安な空気をかもし出す。そして、大きな声や足音を、おのずから禁止する……。
夜更しの習慣の私は、早くから寝静まる寝台車からのがれて、食堂車に腰をすえていた。腹はすいていないし、ゆっくりやるには、いきおい、ビールか日本酒だ。
ところが、時間すぎの食堂車というのが、また変なもので、大抵は、連れのある客というものがない。一人ぽっちの者だけで、それが二人か三人、あちこちの隅に腰を下して、互に見るような見ないような、中途半端な眼付で、何やらぼんやり考えこんで、時々思い出したように、ビールか酒かをのんでいる。ボーイ達も奥に引込んで、カウンターに居残ってるのが、不愛想な投げやりな表情をしている。卓布がいやにだだ白く、貧弱な花が淋しくゆれていた。こんななかでうまかろう筈もない酒やビールを、孤独な客たちは、ただ機械的に飲み続ける。
機械的に飲んでも、酔うのに変りはない。無言のうちに、そしてぼんやりした沈思のうちに、私もどうやら酔ってきて、なつかしい故人たちのこと、親しい友だちのこと、恋人……がもしあればその人のこと、などを夢の中でのように考えながら、現実の汽車の動揺と響きとに全身を、宿命的にうち任せて、もう睡眠の方へ――自分の塒の方へと、食堂車を出で、皆うとうととしてる普通車を通りこして、そして寝台車にさしかかった時……。私は驚いて立止った。
みな一様にカーテンが引かれて、その一つ一つに数字が際立ってる、ひっそりしたなかに、丁度私の顔の真正面に、にゅっと、裸の足が一本つき出て、ゆらゆらと動いてるのである。それが、初めの驚きからさめた私の眼には、もう人体の一部とは映らなくて、何だか無生物的な、大根の切瑞か蝋細工かのように映った。
「もしもし……。」と私は云った。そして一呼吸の後、「もしもし、足がおっこちますよ。」
カーテンの向うに、はっとした気配がして、そしていきなり、すっと足が引込んだ。瞬間に、私はぞっとして、駆けぬけたのだった。
*
前述の人の足の一件は、後から考えると滑稽であるが、実際その時には、足が引込んだ瞬間、ぞっと無気味なものに襲われたので
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