ある。馬の足は垂れ下る時が恐いのであるが、人の足は引込んだ時が恐い。これは多分、後者が、独立した一の怪物でなくて、人体の一部をなしてるからであろう。
 人体の一部は、それが人体から切り離されて、別個のものとなる時、初めて本当の不気味さを持つようになる。
 たしか、正木博士の話だったと思うが――或る外科の病院で、不思議なことが起った。その病院の新米の看護婦が毎晩毎晩うなされる。うなされては、重い重い……と口走る。そこでいろいろ問いただされて、遂に告白した。
 彼女は、病院に来て間もない頃、片足切断の手術に立会ったのである。ところが人間の足というものは、身体の一部分をなしてる時は、何でもないが、一旦切断されたとなると、如何にも重い。膝から下の切断の場合でも、馴れない看護婦などは、取落すことがままある。そのため、医者の方で、重いぞ、気をつけ給いと、よく注意してやる。右の看護婦も、その注意を受けた。そして覚悟はしていたものの、愈々患者の足が切断された時、その重みが、両手にずっしりとこたえた。
 それ以来、切断された足先の重量が、両手にこびりついて離れない。夢の中にまで現われてくる。彼女は自分でくり返す、重い重い……。そして両手で懸命にその足先を支えながら、眼を覚すまでうなされ続けるのである。
 これが、人体にくっついている足先だったら、如何に重かろうと、不気味な話にはなりようがない。布団の中から差出されてる寝相の悪い足先と、汽車の線路のそばに転ってる轢断された足先と、両方を見たことのある者は、這般の消息を解するだろう。
 たとい恋人の指先や乳首や耳朶であろうとも、一度切断された場合には、それを愛撫することは、一種の変態性となり、一種の怪談味を帯びてくる。人の指先や乳首や耳朶を切りそぐことが、その近親者にとって、最も残忍な刑と感ぜられるのは、単に苦痛の想像に依るばかりでなく、切りそがれたそれらのものが、愛する人の一部分から、他の不気味なものへと転位する故にも依る。
      *
 切断された部分は、特殊な不気味さを持つが、切断されない部分も、その部分だけを抽出して鑑賞すると、特殊な風味を持っている。その風味を、ひょいと味って見ようとした者に、サラヴァンという男がいる。
 サラヴァンは、ジョルジュ・デュアメルの小説中の人物だが、或る商事会社に勤めていて、社長の前で事務の説明をしている時、ふと社長の左の耳に眼をとめる。それは普通の耳で、大きくて、毛が生えていて、斑点のある、単なる肉片だが、それでいて変に心を惹く。彼の子供はその耳のところにかじりつくし、或るタイピスト嬢はその耳の後ろにキスしたことがある筈だ。触ってみていけないという法はあるまい。サラヴァンはそっと手を差出す。とんでもないことだと自分で思う。だがやはり、是非とも触ってみたくなる。禁制された、非存在的な、想像的なものではなくて、肉体の一片にすぎないことを、自ら証明しなければならない気持になる。そしていつしか手を伸して、その耳朶の一部に、人差指を押しあててしまった。
 社長はとび上って、猛りたつ。サラヴァンは気抜けがしたように、ぼんやりしてしまう。そして大勢の者に引きずり出され、会社もやめさせられる。そして彼の放浪が始まるのである。
 人体の一部である時、肉体の各部は、特殊な禁制されたものとなる。その禁制を破る特権は、特殊な関係の者にしか与えられない。その特権を僭有する時、人はもはや通常人として待遇されない。社長にとっては、サラヴァンは一人の狂人であったろう。
      *
 常人にとっては、狂人は異常であるが、狂人にとっては、常人がみな異常に見えるであろうことは、たやすく想像がつく。
 ところが、どうかした調子で、常人の吾々にも、おかしな不安が襲ってくることがある。
 私は或る時、一人の青年と酒を飲んでいた。眼の光の深く沈んだ、どこか語気の激しい、天才らしくもあり、狂人らしくもある青年で、二三度逢っただけの間柄で、さほど親しいというわけではないが、偶然、小料理屋の一隅に一緒に腰を落付けることとなったのである。
 私も彼も、よく酒を飲んだ。話は各方面に飛び移っていったが、酔ってくるに随って、彼は度々同じ問をくり返すのである――人体には、勿論汗腺や毛根を除いて、内部に通ずる穴が幾つあるか、知っていますかと。
 身体に幾つ穴があるかなどということは、酔余の戯れに婦女子などに云いかける言葉で、ばかばかしくて、私はただ笑って答えなかったが、青年の問は度重るにつれて、次第に執拗になっていくので、問題の内容そのものよりも、その調子に私は心惹かれた。すると彼は、一体こんなに方々に穴をあけておいて、不安ではありませんか、というのである。
 話をきいて見ると、彼は、不潔な空気や塵埃や黴菌などのこ
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