とを云ってるのではなかった。正気と狂気とのことを云ってるのだった。
「正気と狂気とは、空中に、殊にこんな都会の中には、至るところに浮游しています。どれを吸いとって、どれを吐き出すかが、重大な問題です。」
 そして彼は、一寸間違ったという経験を話しだした。
 もうよほど以前のことで、俥がまだ方々にあった時のこと、彼は少し熱があったので、俥にのって医者に出かけた。晴れてるが風の強い日だった。日にてらされたなま温い空気にのって、風がさーっさーっと吹いている。それが俥の幌に、ばさーりばさーりと吹きつけてくる。いやな風だな、と思っているうちに、やがてその風が、ばかーばかーと怒鳴るのである。
 彼は我慢した。風はなお、ばかーばかーと叫んでいく。それでも彼は我慢した。風の方はなお勢を得て、四方から彼の方へ吹きよせてきて、ばかーばかーと、怒鳴るのである。耳をふさいでもおっつかない。しっきりなしに怒鳴る。しまいに彼は辛抱しきれなくなって、ばかーと怒鳴り返してやった。風の方でばかーと怒鳴る。彼も思いきって、やたらに怒鳴り返してやった。
「それからです、私は暫く気が狂ってしまいました。あの時、耳の穴から狂気をすいこんで、口の穴から正気を吐き出してしまったんです。そして、その狂気を吐き出して、正気を吸い戻すのに、随分長くかかりました。」
 じっと眼を据えてる彼の顔を、私は凝視したのだった。そして気がついてみると、煙草を吸うのもおかしなことだし、息をするのまでがおかしなことだ。おかしなことというものは、考えてみると、不安なことだ。なるほど、この都会の空気中には、狂気と正気とが、至る所に浮游しているかも知れない。そいつが、いつどこからどんな風に飛び込んでこないとも限らない。危い。よくみんな平気でいられるものだ……。
 そうした不安が、幸にも私には昂じなかった。後で聞いたことだが、右の青年はまだ多少気が変で、往々にして、一切飲み食いをせず、耳や鼻に綿をつめこみ、布団の中にもぐりこんで、息をこらし、自分で窒息しかけることがあるそうである。
 自分も危いところだった、と思って、私は大きく息をついたものだ。
      *
 狂気や正気が身体の穴から出入するなどということは、酔余の幻覚かも知れないが、自分の身体の存在について不安を覚ゆることは、多くの人にあるものらしい。深夜、書斎で、読書の後、或は瞑想
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング