している時、ふと社長の左の耳に眼をとめる。それは普通の耳で、大きくて、毛が生えていて、斑点のある、単なる肉片だが、それでいて変に心を惹く。彼の子供はその耳のところにかじりつくし、或るタイピスト嬢はその耳の後ろにキスしたことがある筈だ。触ってみていけないという法はあるまい。サラヴァンはそっと手を差出す。とんでもないことだと自分で思う。だがやはり、是非とも触ってみたくなる。禁制された、非存在的な、想像的なものではなくて、肉体の一片にすぎないことを、自ら証明しなければならない気持になる。そしていつしか手を伸して、その耳朶の一部に、人差指を押しあててしまった。
社長はとび上って、猛りたつ。サラヴァンは気抜けがしたように、ぼんやりしてしまう。そして大勢の者に引きずり出され、会社もやめさせられる。そして彼の放浪が始まるのである。
人体の一部である時、肉体の各部は、特殊な禁制されたものとなる。その禁制を破る特権は、特殊な関係の者にしか与えられない。その特権を僭有する時、人はもはや通常人として待遇されない。社長にとっては、サラヴァンは一人の狂人であったろう。
*
常人にとっては、狂人は異常であるが、狂人にとっては、常人がみな異常に見えるであろうことは、たやすく想像がつく。
ところが、どうかした調子で、常人の吾々にも、おかしな不安が襲ってくることがある。
私は或る時、一人の青年と酒を飲んでいた。眼の光の深く沈んだ、どこか語気の激しい、天才らしくもあり、狂人らしくもある青年で、二三度逢っただけの間柄で、さほど親しいというわけではないが、偶然、小料理屋の一隅に一緒に腰を落付けることとなったのである。
私も彼も、よく酒を飲んだ。話は各方面に飛び移っていったが、酔ってくるに随って、彼は度々同じ問をくり返すのである――人体には、勿論汗腺や毛根を除いて、内部に通ずる穴が幾つあるか、知っていますかと。
身体に幾つ穴があるかなどということは、酔余の戯れに婦女子などに云いかける言葉で、ばかばかしくて、私はただ笑って答えなかったが、青年の問は度重るにつれて、次第に執拗になっていくので、問題の内容そのものよりも、その調子に私は心惹かれた。すると彼は、一体こんなに方々に穴をあけておいて、不安ではありませんか、というのである。
話をきいて見ると、彼は、不潔な空気や塵埃や黴菌などのこ
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