、彼は驚き打たれ、その柔かさをかき抱きました。彼女全体、彼が知ってる如何なる女性よりも柔かでした。
それが、凡てでありました。
其後、彼女はいつでも、求めらるるままに、唇と抱擁とを彼に許しました。然し彼はそれ以上を求めず、彼女もそれ以上には誘いませんでした。
こういう関係は、若い愛人の間や許婚の間に見られるもので、多くは結婚に至る道程にあるものでしょう。けれど、彼と彼女との間には、未だ嘗て、結婚のことは固より、愛情のことも語られませんでした。ただ暗黙のうちに、自由に抱擁を許し合っただけでした。
彼は既に四十歳を越していて、幾人かの女性を性的に知っていました。彼女は既に未亡人で、軍属として南方で戦歿した夫との間に、信一という子供もありました。そういう二人が、抱擁だけの一線で踏み止ったのには、何か秘密があったのでしょう。単に、遠慮とか、世間体とか、真の愛情の問題とか、そのようなこと以外に何かがあったのでありましょう。
そうした彼女の痣から、山川正太郎は眼をそらして、口当りは柔かだが強烈な柿酒をあおりました。彼女はただ静かに控えていました。沈黙は、二人の間では何の差し障りもないもの
前へ
次へ
全19ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング