、すべてがぼんやりしていて、ただ、痣の一事だけが中心にはっきりしています。
彼は酔っていました。友人の旅先での訃報を受けていました。つまらぬことで女中を怒鳴りつけました。ちょっと父と議論しました。いくらか感傷的になっていました。その他、それらのすべてのことも、別に取り挙げるほどのものでないのは、勿論でありましょう。
そしてその晩、彼は書斎で、東京都の地図を拡げて、町名を辿りながら、空襲による罹災地域を見調べていました。傍から彼女も地図を覗きこんでいました。彼はふと眼を挙げました。眼前に、彼女の横額の淡い痣がありました。電灯の光を直正面に受けて、妖気を湛えてるようでした。
彼は椅子から立ち上りました。彼女は顔を挙げました。その黒い瞳が、痣の下から彼に縋りついてきました。彼は彼女の肩に手をかけ、抱きすくめて、自分でも思いがけなく、彼女の痣の上に唇を押しつけました。
「あ。」
声ではなく、全身でそう言うけはいで、彼女は両手で彼を押しのけようとしかけましたが、そのまま両手を顔にあて、泣くような身ごなしで彼にもたれかかってきました。その彼女の全身の、まるで骨のないようなしなやかな柔かさに
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