「ちょっと、こちらへ……。」
 彼は室内の襖かげ、外から覗き見られない片隅へ、彼女を連れてゆきました。
 彼は彼女の肩へ手をかけました。
 彼女は頭を振りました。
「乾杯のあとで……いけません。」
 それを上から押っかぶせて、彼は彼女を抱擁しました。彼女の柔かな身体を抱いた両腕に、ぐいぐいと力をこめました。彼女は片手を彼の胸にあて、とんと二度ほど叩きました。彼が腕を離すと、彼女は息絶えたように畳の上にくずおれましたが、やがて、一息、肩が動きました。
 その息の根を見定めて、彼はそこから去りました。
 中廊下に出て、曲り角を経て、茶の間へ行こうとしますと、そこに意外にも、塚本堅造が立っていました。壁の表面とすれすれに、殆んど壁にめいりこんでるかと思われるほどでした。そして、軽く頭を下げていました。
 山川正太郎は、なにか寒けがして、立ち止りました。白髪の多い小さな頭、皺だった額、足があるとも思えないほど細そりと垂れしぼんでる和服の下半身、それだけを、山川正太郎はじっと眼に入れました。
 塚本老人は更にまた、頭を下げました。
 山川正太郎は、くるりと向きを変えました。そして、階段を上って、
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