た。それを前提として考えますれば、彼女が鎌倉に住むことは、或は情愛を通じ合う途があるかも知れぬことになりますし、彼女が信一と共に公然と山川家に住むことは、情愛を封殺することになるのでした。それが、彼等の人間としての道義でありました。この点も、暗黙の間に理解されていました。
 山川正太郎の返答を聞いて、加納春子はぽっと頬に赤みをさしました。そしてじっと宙に眼を据えました。
 彼女の頬の赤みが引いてしまう頃、山川正太郎は涙ぐんで感傷の底に沈んでゆきました。その底から泳ぎ上ろうとするかのように彼は言いました。
「この決心は、いけないでしょうか。」
 彼女は大きく息をついて、静かに言いました。
「あたくしも、それより外に途はないと思っておりました。」
 彼女は両の眉が心持ち寄りあったまま、微笑みました。
「乾杯して頂けますかしら……。」
 山川正太郎は立ち上りました。そして二三歩あるいて、言いました。
「あなたのその額の痣は……どうして出来たのか、聞かして下さい。」
 彼女は、彼が驚いたことには、ほんとににっこり笑って、話しました。
 けれど、彼女のその話も、すこぶる曖昧なものでした。或る時、
前へ 次へ
全19ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング