、すべてがぼんやりしていて、ただ、痣の一事だけが中心にはっきりしています。
 彼は酔っていました。友人の旅先での訃報を受けていました。つまらぬことで女中を怒鳴りつけました。ちょっと父と議論しました。いくらか感傷的になっていました。その他、それらのすべてのことも、別に取り挙げるほどのものでないのは、勿論でありましょう。
 そしてその晩、彼は書斎で、東京都の地図を拡げて、町名を辿りながら、空襲による罹災地域を見調べていました。傍から彼女も地図を覗きこんでいました。彼はふと眼を挙げました。眼前に、彼女の横額の淡い痣がありました。電灯の光を直正面に受けて、妖気を湛えてるようでした。
 彼は椅子から立ち上りました。彼女は顔を挙げました。その黒い瞳が、痣の下から彼に縋りついてきました。彼は彼女の肩に手をかけ、抱きすくめて、自分でも思いがけなく、彼女の痣の上に唇を押しつけました。
「あ。」
 声ではなく、全身でそう言うけはいで、彼女は両手で彼を押しのけようとしかけましたが、そのまま両手を顔にあて、泣くような身ごなしで彼にもたれかかってきました。その彼女の全身の、まるで骨のないようなしなやかな柔かさに、彼は驚き打たれ、その柔かさをかき抱きました。彼女全体、彼が知ってる如何なる女性よりも柔かでした。
 それが、凡てでありました。
 其後、彼女はいつでも、求めらるるままに、唇と抱擁とを彼に許しました。然し彼はそれ以上を求めず、彼女もそれ以上には誘いませんでした。
 こういう関係は、若い愛人の間や許婚の間に見られるもので、多くは結婚に至る道程にあるものでしょう。けれど、彼と彼女との間には、未だ嘗て、結婚のことは固より、愛情のことも語られませんでした。ただ暗黙のうちに、自由に抱擁を許し合っただけでした。
 彼は既に四十歳を越していて、幾人かの女性を性的に知っていました。彼女は既に未亡人で、軍属として南方で戦歿した夫との間に、信一という子供もありました。そういう二人が、抱擁だけの一線で踏み止ったのには、何か秘密があったのでしょう。単に、遠慮とか、世間体とか、真の愛情の問題とか、そのようなこと以外に何かがあったのでありましょう。
 そうした彼女の痣から、山川正太郎は眼をそらして、口当りは柔かだが強烈な柿酒をあおりました。彼女はただ静かに控えていました。沈黙は、二人の間では何の差し障りもないもの
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