醒める、そうした心地は、しんしんと深いものがありました。その深さの故に、いろいろなものがはっきり見えてきました。
 とりわけ、彼が見ていましたのは、もう其処にいない客たちの、それぞれの足跡でした。宴席で、皆が飲み食い饒舌っているうちは、ただ一つの雰囲気を拵えるものですが、やがて、一人去り二人去り、一同が去ってしまうと、そのあとの妙に佗びしい空間に、暫くは、各人の何かが刻まれて残っています。それは面影というほどはっきりしたものではなく、まあ存在の足跡とも言えましょうか。つまり、そこに居たことによってそこに足跡が残る、というわけでありましょう。
 十人余りの客の、そういう足跡を、山川正太郎はじっとうち眺めていました。その観照には、痛いような快さがありました。それは酒の酔いにも似ていました。
 けれども今、肉眼で眺めると、それらのものは消え失せて、ただ一人、加納春子がそこに佇んでいるきりでした。
 彼女は気懸りそうに、山川正太郎の様子を窺っていました。――楕円形の顔、鶏卵を逆さにして少し引き延したのと、そっくりな顔で、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の尖りにふさわしく口がつぼみ、そして額がふっくらとしていますが、何かに注意をこらす時、両の眉が少しく寄りあうのでした。
 その眉を見て取って、山川正太郎は言いました。
「まあちょっと、ここへお掛けなさい。話がありますから。」
 加納春子は笑みもせず、またわるびれもせず、彼と小卓をはさんで、籐椅子のクッションに腰を下しました。そして彼の顔を見ながら、両の眉がまた少しく寄りあいました。と同時に、ぽっと頬に赤みがさしました。この頬の赤みは、いつも、何かの決意のしるしでした。
 山川正太郎はそれをも見て取りました。
「一杯のみませんか。」
 差し出されたグラスへ、彼女は軽く頭を振りました。
「いいえ、あたくしは……。」
 山川正太郎は一人でぐっと飲みほして、彼女の顔を改めて眺めました。
 近々に見ますと、その額の、時々寄りあう眉の右上に、厚化粧では隠れそうに思われるほどの淡さで、拇指の先ほどの大きさの痣がありました。
 ――ああ、この痣だ。
 まったく、それが機縁でありました。
 だが、どうしてそうなったのか、明瞭でありません。重大な行動の動機が不分明に終ることは、案外に多いものです。山川正太郎自身、あの時のことを追想しても
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