影
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)唐紙《からかみ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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叔父達が新らしい家へ移転してすぐに、叔父は或る公務を帯びて、二ヶ月ばかり朝鮮の方へ旅することになりました。勿論この旅行は前から分っていましたが、その出発の間際に、前々から探していた適当な貸家が見当ったので、慌しく其処へ引越して、まだ荷物もよく片付かない三日目の朝、叔父は特急の列車で朝鮮へ出発しました。そして新らしい家の中には、叔母と八歳になる千代子と、五歳になる繁と、顔の真円い女中とが、ごたごたしてる荷物と一緒に残されたのです。
その頃私は、本郷に下宿して高等学校に通っていました。叔父一家の引越の時は、その高輪の家へ、夕方から夜の十時頃まで手伝いに行きました。実は泊りがけで学校も休んで手伝いたかったのですが、私用のために学校を休ましては国の御父さんに済まないと、厳格な叔父が命令的に云うものですから、それに従っていました。所が叔父の出発の日は、暗黙の許可で学校を休んで、品川駅まで見送りをして、それから叔母達と一緒に高輪の家へ帰りました。何しろ叔父の旅の方の用事が多かったものですから、家の中はまだちっとも片附いていませんでした。それで、半ばは私の方から願い、半ばは叔母の方から願う形で、私は二三日学校を休んで手伝ってゆくことにしました。はっきりした口実の下に公然と学校を休んで、好きな叔母と無駄話などしながら、のらくらと家具なんかを弄って、そして晩にはうまい御馳走になり、おまけにいくらかの――学生の身には可なり有難い額の――小遣を貰う日当があるんですから、実にいい機会だったのです。
所が叔母の方にも、単に私から手伝って貰うということ以外に、私を引止めたい他の理由があったらしいのです。「この家をどう思いますか、」と尋ねておいてから、こんなことを云い出したのです。
「日当りのよい割合に、何だか陰気な変な家ですよ。妙に息苦しい気がして夜中に眼を覚すと、それから頭のしんが冴えて、どうしても寝つかれません。そんなことが、引越してきた翌晩――一昨日の晩も、昨晩も、あったのですよ。」
私は叔母の蒼白い顔を眺めながら答えました。
「それは引越に疲れたせいでしょう。」
けれども心の中ではこう考えました。「この呑気な叔母も案外神経質だな。親しみのない新らしい家と、良人の旅行とのために、神経が興奮してるんだな。」
けれども私達は、そんなことにこだわってはおられませんでした。前の家とはすっかり間取の模様が違っていましたので、家具を据付けたりなんかするのにも、何度かやり直してみなければ気が済みませんでした。それに道具好の叔父なものですから、いろんな品物がごたごたしていて、なかなかうまく治りがつきませんでした。その上、障子を張り替えたり、庭に盆裁を並べたり、いろんな用がありました。
そんなことを隙にあかしてゆっくりやってるうちに、いつのまにか夕方になりましたので、また明日のことだと一先ずきりをつけて、叔母の心尽しの御馳走が並んでる餉台で、皆は楽しい晩餐をしたためました。可なり遅く八時頃だったと思います。新らしい家と主人の不在とのために、何だか電灯の光りまでが珍らしげな色合をしてるように感ぜられました。
その電灯が丁度食事の終り頃、ふいに消えてしまったのです。千代子と繁とが驚きの声を立てたきり、動いていた皆の手や口や眼が途中でぱったり止って、暗闇の中にしんとしてしまいました。暫く待っても、電灯はなかなかつきそうにありません。叔母は女中に蝋燭を探さしました。女中は長い間かかって、漸く一本の小さな蝋燭を持って来ました。それを餉台の真中に立てて、皆は赤い光りの中でまじまじと顔を見合せながら、食事の終りを簡単に済しました。
その時、箸を置いて立上りかけた繁が、ふいに大きな声を立てました。
「やあ、兄ちゃんの影が!」
振返ってみると、後ろの壁に、馬鹿に大きな影が写っていました。ひょいと首を引込めると、影もひょいと首を引込めました。
「あら、影が踊ってるわ。」と千代子が頓狂な声で叫びました。
私はその方を振向きました。すると、向うの壁にも、千代子と繁のとの影が二つ並んでいます。
「後ろを見てごらん、千代ちゃんと繁ちゃんとの影も写ってるよ。」
二人は同時に振向いて、自分達の影を見ました。影の頭が動いて横顔になった途端に、小さな鼻の頭が少し覗き出しました。
「あら、繁ちゃんの影には鼻があるわ。」
その時私は蝋燭を取って、ずっと二人に近寄せま
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