怪異に嫌わる
豊島与志雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−

 坪井君は丹波の人である。その丹波の田舎に或る時、伯父の家を訪れたところ、年老いた伯父は、倉からいろいろな物を持出し、広い座敷に処狭きまで置き並べて、それに風を通していた。
[#ここから2字下げ]
――君は田舎の旧家にある土蔵を知っているだろうか。壁の厚み三尺以上もあり、鉄鋲をうちつけた重い樫の扉の錠前は、二重にも三重にもなり、二階造りで、一階には窓がなく、段の高い階段を上ってゆくと、二階の正面にただ一つ、二尺四方ぐらいの小窓があるきりだ。如何に暴風雨の時でも、その中にはいれば深閑として、まるで洞窟にでもはいったよう。家人もめったにはいらず、掃除なども殆どされず、埃の積るままになっている。そして其処には、実にさまざまな物が雑然とぶちこまれている。壊れかかった家具や道具の類が堆積していたり、紋章づきの櫃や長持が並んでいたりする。鼠にとっては禁断の場所だが、往々、大蛇が住んでいることもある。この土蔵から、所謂大切なものを取出す権利は、多くは年老いてる家長の専有するところで、随って家長は、隔年ぐらいに一回、ふと思い出したように、伝承の古物を母家の座敷に持出して、土用干しをするのだ。
[#ここで字下げ終わり]
 坪井君は、座敷に並んでるいろいろな物を、好奇の眼で見やった。その中には、幾本もの刀剣類があった。それにちょっと心惹かれて、一つ一つ引抜いては眺めているうち、奇体にこちらの気を打ってくる一振がある。だいぶ錆がきてはいるが、あやしく肌身に迫る気配がする。坪井君はそれが欲しくなって、伯父にねだった。だが、それはやめたがよかろう、と伯父は云う。幾本もあることだから、欲しければどれでも持っていって宜しいが、その刀だけはやめたがよかろう、と云って承知しない。そうなれば、猶更欲しくなるのが人情で、坪井君は遂に二日がかりで伯父を口説き、とにかく暫く貸して貰うということにして、ぬけぬけと分捕ってしまった。その時、伯父がさりげなく洩した言葉によれば、その刀はどういうわけか、昔からなるべく佩用しないようにとの言い伝えがあるのだとか。だが、そのようなこと、坪井君は別に気にも止めなかった。
[#ここから2字下げ]
――田舎の旧家には、いろいろ曰く付きの物があり、またいろいろの言い伝えがあるものだ。それらのものが積って、家の格式とか伝統とかを形造ることが多い。然しそれらのものも、いつしか忘れられがちになったり、心にもとまらないほど遠い昔のことになったりする。殊に近代の空気に多少ともふれた、そして大まかな人は、それらの曰く付きとか言い伝えとかを、表面ではわざと軽蔑した風を装い、内心では倦き倦きしているのだ。ところが、それらの無視された昔の息吹きが、時あって、勢強く立上ることがないものだろうか。立上って復讐することがないものだろうか。あるとすれば、それが特殊な事件や一家の盛衰興廃などにからまると、風味ある小説になるだろうよ。
[#ここで字下げ終わり]
 坪井君は当時、田舎の小さな町に暮していた。然るに、真夜中、丑三つの頃というのであろうか、顔色を変え息をつめて、がばとはね起きた。薄紗をかぶせた電灯の朧ろな明るみのなかで、茫然と見開いた眼には、明瞭な幻がまだ映っている。すらりとした白衣の女人が、血の気のない真白な顔をして、室の前の廊下を、滑るように、行きつ戻りつしている。その姿が、障子越しに、はっきりと見える。じっと眼をつけていると、それが障子を越し、すーっと迫ってきて、とたんに、眼が眩んだのだった。我に返りはね起きて、その幻が眼底から消えると、冷い戦慄が背筋に流れた。
 それに類した幻を、坪井君は、三晩続けて見た。第二夜には、白衣の女人は室の外を、壁や障子の外を、ぐるぐる歩き廻っていたが、やがてそれが室の中となり、圏が次第に縮小して、坪井君の身体とすれすれになり、そこで坪井君ははね起きた。第三夜には、白衣の女人は、天井の上にいたが、やがて天井の下に出て来、坪井君の胸の上までおりて来、そこで坪井君ははね起きた。
[#ここから2字下げ]
――坪井が見た妖性には、一つの特質がある。それは直ちに室内に出現しはしない。いつも、障子の外、壁の外、天井の上、などに出て来るのだ。而もはっきりと見えるのだ。その時、障子や壁や天井板は、そこだけ硝子のように透明になる。いや、それはむしろ硝子の面の映像とでも云おうか。障子や壁や天井の外だと見ていたのが、いつしかその内側、即ち室内になり、次ですぐ身辺に迫ってくるのである。――硝子戸などに映った像が、硝子戸の外から室内へと移り迫ってくるのを、君は見たことはないだろうか。とに
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング