かく、坪井の妖性は特徴的だ。
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 坪井君は三夜続けて幻を見て、はたと思い当った。それは丁度、伯父のところから刀を貰って来たその夜からのことである。刀は床の間に置いてある。
 幻が果してその刀の故かどうか、坪井君は友人に試してみた。小学教員をしている一人の友人を呼び、ビールなど振舞いながら引止めて、その夜、無理に泊めてしまった。隣室に寝かし、室の片隅に刀をひそかに置き、素知らぬ顔をしていた。その深夜、友人は慌しく坪井君の室に飛びこんで来、真蒼な顔をして喘いでいる。訳を聞けば、人間大の真白な蜘蛛が天井からおりてきて、やがて胸の上にのしかかり、息がつまったのだと云う。その蜘蛛の幻が、眼底から去らず、怪しく心おののいて、一人では寝られぬと云う。
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――坪井に現われたのは白衣の女人であり、友人に現われたのは真白い蜘蛛であった。この相違は注意に価する。僕の解釈は云うまい。君自身で考えてみ給え。
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 友人に試したことで、坪井君はいよいよ、幻はその刀の故だと確信を得た。其後、刀を行李に納め、押入にしまえば、幻は見ず、刀を取出して床の間に置けば、幻を見るので、ますますその確信は裏付けられた。
 坪井君は無気味に思いながらも、その刀を伯父に返すのを惜しがった。そして或る研師の手にかけたところ、刀は無銘ながら、確かに青江の相当のものだとのことであった。青江の刀と云えば、福岡貢の十人切の青江下坂をはじめ、妖刀として定評がある。坪井君はなお気味悪くなり、布に包み箱に納めて納戸に隠してしまった。
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――こういう話、君は一笑に付してしまうだろう。僕だって、まさか……と思うことに変りはない。けれども、坪井を単に迷信家だと云いきるのも、どうであろうか。人は時あって、或る思想に捕えられることがあり、或る観念に捕えられることがあり、随ってまた、或る幻覚に捕えられることもあるだろう。思想や観念が、往々にして人から独立して存在するものであり、それが人を捕えるのだ、という見方も成立するとするならば、幻覚についても同じことが云えないだろうか。或はまた、前に云ったように、昔からの言い伝えなどというものが蘇って、坪井に復讐したのかも知れないのだ。
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 坪井君が東京に出て来た時、私は右の話を聞いた。私は心動いて、その青江の刀を是非見せて貰いたいと懇望した。坪井君は承知して、但し譲渡するわけにはゆかないと断り、郷里から刀を取寄せることにした。
 坪井君が青江の刀を私の宅へ届けたのは、折も折、盂蘭盆の十三日の、しとしとと細雨の降る夕方だった。私は快心の笑みを洩らしながら、その刀をうち臨めた。縞目も分らぬ古錦の袋を開けば、年月の埃に黝んだ白鞘で、それでも研師にかけただけあって、中身は冷徹に冴え渡った大刀、相当の業物らしい。私は何事を措いても、その夜を楽しみに、少々酒まですごし、白鞘の刀を枕頭に横たえて、早くから床に就いた。
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――僕の下心では、もしそれが本当にお化を出してくれる刀だったら、坪井が伯父さんを瞞着したように、何とかかとか云い張り、場合によっては如何に高価でも、借金までしても、それを坪井から巻き上げるか買取るかするつもりだった。刀には執着はないが、お化にこがれていたのだ。と云って、僕は妖怪変化の存在を信じてるのではない。そんなものはまあ居ないものと思ってはいるが、然し、どうかして逢いたいのだ。世には、怪異を見たという人は随分多い。それがたとい幻覚であるにせよ、一生に一度ぐらいは僕も見たい。怪異を見ることによって、心情が深まりはしないだろうか、少くとも心情の風景が賑かになりはしないだろうか。僕は生来怪異が好きなのだ。
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 深々たる真夜中、私はふと眼がさめた、と思ったのは誤りで、欄間には明るい光がさしている。起き上ってみるともう十一時になりかけていた。枕頭には青江の刀が昨夜のままで、そして一晩中何のことも起らなかった。
 私はなお幾夜か、その刀をためしてみた。然し変化の出現する気配だにない。私は当外れの気持で、その気持のやり場に困って、此度は子供たちに試してみた。
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――お化にまで嫌われたかという思いは、へんに遣瀬ないものだ。坪井に出て、僕に出ないわけはあるまい。電灯も消して真暗な中に夜中起きていてやろう。と努めてみたが、眼覚むればすぐ起上る代りに寝ればすぐ眠るのが癖で、早くから寝たためにその数日、充分すぎるほどの睡眠が取れた。怪談も何かの役には立つものだ。本当にお化が居てくれたらいろいろの役に立とう。少くとも子供たちにはお伽噺の代りになろう。子供にちにとって、近代では、もう妖精や怪物は死に失せて
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