飛んできました。
 彼は思わず立上ろうとしましたが、その時、金田の高い笑い声がしました。
「おい鶯妹、しっかりするんだぞ。この人は君から逃げ出そうとしてるぞ。首っ玉にかじりついて放すなよ。」
 鶯妹も、ほかの妓たちも、びっくりして眺めますと、景雲はこまかく震えながら歯をくいしばっておりました。
「ははは、もう喜劇は沢山だ。」と誰かがいいました。「これで乾杯といこう。」
 そして一同が乾杯をしています時に、李景雲は立上って室から出て行きました。
 ただ不思議なことには、右のようなことが起った時、そしてその前後とも、陳秀梅の名前が誰の口にも上らなかったのであります。

 その翌日の夜のことでありました。李景雲はただ一人、西湖の蘇堤を歩いていました。星辰清らかな夜で、月の姿は見えませんでしたが、湖面は仄かな明るみを湛えていました。景雲は多少の酒気を帯ているようでしたが、それよりも更に何か精神的な陶酔に陥っているらしく、足取りは弱々しいながら狂いがありませんでした。じっと眼を地面に伏せ、両手を胸に組んで、ゆっくりと歩きました。時々、頭を挙げて熱そうな頬を空に向け、星の光を仰いだり、胸の両手を伸
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