画舫
――近代伝説――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拳《けん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)文※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]
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 杭州西湖のなかほどに、一隻の画舫が浮んでいました。三月中旬のことで、湖岸の楊柳はもうそろそろ柔かな若葉をつづりかけていましたが、湖の水はまだ冷たく、舟遊びには早い季節でありました。通りかかりの漫遊客が、季節かまわず舟を出すことはよくありました。けれども、いま、この画舫は、そうした旅客のものではなく、名所を廻り歩くこともせず、長い間湖心にただよっていた後、東の岸へ戻って来ました。
 船着場へつきますと、画舫から、陳家の子供である姉弟の瑞華と文※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]とが、元気よく飛び出してきました。次に、上海から此処の別荘に来てる張金田が、肥え太った姿を現わしました。そしてあとがちょっととだえました。張金田は振向いて、舟の屋形の下を覗きこみました。
 舟の奥から、静かな声がしました。
「ちょっと、片づけものをしまして、じきに参ります。子供たちへお約束の品を買って頂いてますうちに、お先に宅へ戻っておりますから……。」
 そして張金田と二人の子供とは、町の方へなにか買物にやって行きました。舟には、子供たちの母親の陳秀梅と女中の※[#「槿のつくり」、84−下−2]香とが残りました。
 陳秀梅は席にじっと落着いたまま、火桶に片手をかざして、船頭の方を眺めました。二十七八歳の青年で、画舫の水夫としての普通の身装ですが、眉秀でて口元が緊り、頼もしい精神力を偲ばせる顔立でありました。
「あんたが、李景雲さんですか。」と秀梅はいいました。
 突然、丁寧に呼びかけられて、青年は棒のようにつっ立ちました。
「あんたのことは、うちの徐康から聞いて、よく知っています。もとは立派な家柄だったとか、そして、室にはいろいろな書物が一杯並んでおり、頭にはいろいろな知識を一杯つめこんでいなさるとか、聞きました。だけど……。」
 秀梅の頬からやさしい微笑が消えて、真面目な色が眉根に寄りました。
「そういうことよりも、わたしはなんだか、あんたをじかに、よく識っているように思えますが……。」
「私もよく存じあげております。」と李景雲はいって、なぜか、顔を赤くしました。そしていい添えました。「陳家の奥様のこと、よく存じあげております。」
「いいえ、そういうことではありません。」と秀梅は押っかぶせていいました。「じかに、どこかで、よく識っているような気がしますが……。」
 李景雲はうつむいて立っていましたが、呟くようにいいました。
「初陽台でございました。」
「初陽台……。」
 秀梅はそう繰返して、じっと李景雲の顔を眺めました。
「覚えていますか。」
「はい。」
 李景雲はまた顔を真赤に染めました。
 秀梅はそれきり口を噤んで、眼をそらしました。静まり返った湖水の面は、青空を映し、午後の陽光を孕んで、生き物のように輝いていました。
 食器の類を取りまとめていた※[#「槿のつくり」、85−上−18]香に、秀梅はきっぱりいいつけました。
「わたしはも少し遊んでゆくから、お前さんは先に帰って晩のお料理の仕度をみてやりなさい。」
 そうして、※[#「槿のつくり」、85−上−22]香を先に帰しまして、秀梅はまた舟を少し出させました。卓子の上には、茶菓が残されていました。その蓮の実の菓子を彼女は一つつまんで、真白な小さな歯先でかじりながら、右手の方、初陽台のある山の峰を眺めました。李景雲は静かに舟を漕ぎました。
 こうしたことは、陳家の夫人としては、少し我儘すぎる行いでありました。殊に、まだ三十五六歳ほどの若い美しい未亡人としては、そうでありました。けれども彼女には元来、世の中のことに無頓着な一面が少しくありました。
 陳氏が亡くなったのは五年前のことですが、秀梅はずっと子供達相手に暮してきました。店のことや財産のことは忠実な老僕の徐康に任せきりで、どんな相談をもちかけられても、殆んど考えもせずに一任するのでした。そして彼女は次第に柔かな肉が増してき、挙措動作がなよやかになり、顔には瑞々しい色艶があふれてきまして、未亡人になって初めてその美貌が人目につくようになったのでした。けれども、彼女自身ではそういうことも全く問題でないらしく、いろいろ人の噂に上りながら、再婚の気持など更になく、子供たち相手にのんびりした日々を過し、奥向の家事を取締ってるだけでありました。そしてただ時々、気まぐれなことをしました。家には立派な料理人がいますのに、娘の瑞華と二人きりで、町の騒々しい料
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