理屋に食事をしに行くことがありました。侍女も連れずに一人で、湖岸の散歩にぶらりと出かることがありました。日常の交際では、相手を選り好みすることが全くなく、どんな悪評のある人が訪れてきても、にこやかに応接しました。
 ところが、人々をそれとなく帰して一人で李景雲にまた画舫を出さしたことのうちには、なにかただの無頓着さとは異ったものがあるようでした。彼女は蓮の実の菓子を二つ三つかじりながら、いつまでも無言のままでいました。

 湖の北岸の葛嶺の頂きにある初陽台は、眺望絶佳の場所とされています。夏には遊歩の人が多くあります。けれども、旧暦十月朔日の未明、此処から東天を眺めるがよいといい伝えられております。日の出に際して光茫充満し半天赤くなるともいわれていますし、或は日月並び出るのが見られるともいわれています。新暦元旦の早朝に登って、初陽に祈念する人もあるそうです。
 この元旦の未明、陳秀梅はただ一人で、何故か明らかではありませんが、初陽台に登ったのでありました。そして日の出を待ちましたが、ただ仄かな白みが東天に漂ってる気配きりで、空は一面に茫と曇って寒冷な大気のなかに、霧とも雨ともつかない針のようなものが、ちらちら飛び交うのが感ぜられてきました。四五の人影が、無言のうちに山を下ってゆきました。秀梅も下り初めました。
 小径はうねりくねって、石段や敷石が交錯していました。多くの沓に擦り磨かれたその石の上の、薄暗がりのなかで、秀梅の凍えた小さな足は滑りました。彼女は横向きに膝をつき、左手の甲をすりむき、右手で地面に身を支えました。そしてちょっと息をついています時、後ろから、若い逞ましい男の腕が、彼女を援け起してくれました。彼女はくっきりと身を包んだ外套の中から、そして頭からすっぽりと被った面帛の中から、低い声で御礼をいいました。若い男はただ、早くお帰りなさるがよろしいとだけいいました。そして二人はそのまま、彼女はその柔かな体重を彼の腕に半ば託し、彼はそれを支えながら確かな足取りで、薄暗い石道を辿ってゆき、途中の亭閣に憩いもせずに、湖岸まで下りてきました。
 雨は降りませんでしたが、風もなく、ただ仄白い夜明けでした。秀梅はそこに立止って、面帛を半ばかかげて相手をすかし見ながら、静かな声でいいました。
「わたしは陳秀梅という者であります。明日お午に、あらためてお目にかかりたいと存じます。お待ちしておりますから、お出で下さいませんでしょうか。」
「有難うございます。御用の時には伺わせて頂きます。」
 どうとも取れるその言葉を残して、若者は丁寧にお辞儀をして、すたすたと歩み去って行ったのでありました。
 秀梅はそっと家へ戻りました。女中の※[#「槿のつくり」、86−下−11]香だけが、彼女の左手の擦り傷は戸外でなされたことを知りました。
 秀梅は若者の来訪を待ちました。然し若者は訪れて来ませんでした。その若者が画舫の李景雲だったのであります。

 ひたひたと、物静かな水音をたてながら、画舫は湖心の方へ出てゆきました。
 やがて、陳秀梅は急に気付いたかのように、李景雲に漕ぐのを止めさして、席近くに招きました。彼女の顔には、おっとりとしたやさしい笑みが浮んでいました。
「あの翌日、なぜ来ませんでしたか。待っていましたよ。」
 景雲は顔を赤らめて、つっ立っていましたが、ようやく答えました。
「御用のある時に伺うつもりでございました。」
「そう……たしか、あの時も、そういうことをいいましたね。まあ、そこへお坐りなさい。」
 景雲はもじもじしていましたが、うつ向けた眼に、秀梅の小さな足先が見えますと、それを避けるように、すぐ席に腰をおろしました。
「あんたのことは、徐康からいろいろ聞いて知っています。徐康はお父さんと懇意だったそうですね。お父さんが亡くなってからも、時々徐康に逢いますか。」
「いいえ、めったに逢いません。」
「いま一人きりだそうですね。」
「はい。」
「淋しいでしょうね。」
 景雲は頭を振って、初めて落着いた青年らしい微笑をしました。
「初陽台なんかへ、時々登るのですか。」
「いいえ、登りません。」
「では、元旦の朝、どうして登ったのですか。」
 景雲は急に、淋しそうな眼付をしました。そしてちらと秀梅の顔を見てから、答えました。
「私はあの時、いろいろなことを考えあぐんでおりました。その思想上の悩みのために、日の出を見たい気持になりましたのです。」
「そう、考えあぐんだから、日の出を……。」
 秀梅はやさしい眼を見張って、怪訝そうに首を傾けました。景雲はふいにいいました。
「それでは、奥様は、どうしてあのような所へお登りなさいましたのでしょうか。」
「わたしはね、いろいろ考えなければならないことがありました。それを、ちっとも考えないように
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング