。それも、若い頃はさほど美人でもなかったが、年をとるにつれて美しくなってきた。全く異数の女だ。」
 人々は意味ありげに眼を見合せました。
「その上、財産もあるというのだろう。」と一人がいいました。
「うむ、財産もある。」
「君に誂え向きだね。」とまた一人がいいました。
「惜しい哉、彼女は既に一度結婚したことがあるのだ。」と金田は答えました。
「それでは、妾の組だな。」と誰かがいいました。
「目下考慮中というところだ。まず乾杯しよう。」
 一同は笑いながら乾杯をしました。
 その時、乾杯に加わりながら、景雲はぱっと杯を床に叩きつけて砕きました。金田はじっと彼の方に眼を据えました。彼は即座に、強く自分の腿をつねって、その痛みに顔をしかめました。それが、何かの挑戦となったのでありましょうか、金田の拳が飛んで来て、彼の横面を一撃しました。彼はその痛みをもじっと怺えました。
 金田の大きな顔が彼の眼の前に覗きだして、低く底力のある声でいいました。
「お前のような奴がいるから、俺はあのひとを保護してやらなければならないのだ。もうあの家へも出入を止めたがよかろう。」
 そしてまた拳の一撃が彼の横面へ飛んできました。
 彼は思わず立上ろうとしましたが、その時、金田の高い笑い声がしました。
「おい鶯妹、しっかりするんだぞ。この人は君から逃げ出そうとしてるぞ。首っ玉にかじりついて放すなよ。」
 鶯妹も、ほかの妓たちも、びっくりして眺めますと、景雲はこまかく震えながら歯をくいしばっておりました。
「ははは、もう喜劇は沢山だ。」と誰かがいいました。「これで乾杯といこう。」
 そして一同が乾杯をしています時に、李景雲は立上って室から出て行きました。
 ただ不思議なことには、右のようなことが起った時、そしてその前後とも、陳秀梅の名前が誰の口にも上らなかったのであります。

 その翌日の夜のことでありました。李景雲はただ一人、西湖の蘇堤を歩いていました。星辰清らかな夜で、月の姿は見えませんでしたが、湖面は仄かな明るみを湛えていました。景雲は多少の酒気を帯ているようでしたが、それよりも更に何か精神的な陶酔に陥っているらしく、足取りは弱々しいながら狂いがありませんでした。じっと眼を地面に伏せ、両手を胸に組んで、ゆっくりと歩きました。時々、頭を挙げて熱そうな頬を空に向け、星の光を仰いだり、胸の両手を伸ばして笛に打振ったりしましたが、またやがて専念の姿勢に戻るのでした。そして蘇堤の――端近くなると、くるりと向きを変えて引返し、他の一端近くなると、またくるりと向きを変えて引返しました。二キロに近いこの長い蘇堤の上を、こうして彼は幾度か往復しました。堤上の楊柳はしなやかな枝葉を張って、風もないのに、柳絮は時折彼の身に舞いおちました。
 彼は何を思い耽っていたのでありましょうか。それを言葉に直してみますならば――

 私の決心はもう定まっている。これ以外の決定はなし得ないところへまで、私は落ちこんでしまったのだ。いや、落ちこんだのではなく、自然に推移してしまったのだ。
 ただ一つの私の悔いは、今日の卑怯な振舞であった。然し自然にも策略があるとするならば、この卑怯な振舞も一つの策略として許されるであろう。
 昨日の夜、私は、数名の市人たちの面前で、そして数名の娼婦たちの面前で、即ち公衆のさなかで、辱しめを受けた。而もそれが私の恋人への侮辱によって、いや、私の恋愛への侮辱によって、為されたのである。
 私はその辱しめのなかから、頭を垂れて出て来たのだ。
 そして今日どうであったか。私は侮辱した当人の張金田を訪れて、その前に私は平身低頭して、詫言をいったのだ。心にもない嘘をいい、心の奥にあるものを口頭で否定して謝罪したのだ。陳秀梅さんに対する感恩のために、そして酒の酔のために、それが私の唯一の皮相な口実だったのだ。
 卑劣な嘘言にひっかかる者に、災あれ。彼自身卑劣の外の何者でもないのだ。張金田は私の策略に陥って、更に私の献身や助力を求めようとした。私は誓った。おう、恥しくも誓った。真の誓いは真心の上にのみ打立てられることを知らない者に、災あれ。
 張金田から誓いを求められたことによって、私は漸く自分の力を知った。ああこれを知ることの、も少し早かったならば……。
 然しそれは、遅きに過ぎはしなかった。私は自分の力を知るに及んで、同時に、自分の恋の深さをも知ったのだ。
 私は陳秀梅さんの前に跪いて、いつかの画舫の中でのように跪いて、告白したのだ、私はあの初陽台の時から、あなたを恋しておりましたと。
 その時のあの人の蒼ざめた神々しい顔は、私の眼の中にはっきりと残っている。永久に残るであろう。だが私は、瞬間、それに堪えきれなかった。
 私はあなたを恋しております。けれど、これは恐ら
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