蝦蟇
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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五月頃から私の家の縁先に、大きい一匹の蝦蟇が出た。いつも夕方であった。風雨の日や、妙に仄白く暮れ悩んだ日や、月のある夕方などには、出なかった。夕闇が濃く澱んでいる時や、細かい雨がしとしと降る時などに、出た。垣根に沿ってのそりのそりと匐っていった。それが如何にも悠然としていた。静かであった。そして大きい力に満ちていた。
夕食が少し後れたような時、散歩にも出たくないような時、私は紙巻煙草を口にくわえて縁側に寝転びながら、その蝦蟇をじっと見た。私の心は静かであった。蝦蟇も静かであった。それがよく一時間の余も続いた。
「またですか。」
「ああ、面白いからお前も少し見てごらん。」
私と妻との間によくそんな会話が交わされた。然しそれは別に面白いというのでもなかった。面白いのを通り越して居た。
蝦蟇は力をこめてぬっと前足を立てた。それから後足を立てると、殆んど同時に片方の前足は一歩進んでいた。そして四本の足の上に大きな厚ぼったい感じのする重い胴体を支えながら、四五歩前方に歩んだ。すると直ぐにどしりと尻を地面に落して止まった。然しそれは静止以上のものだった。静かなうちに動いていた。生きて居た。大きい口をぱくっとやると、その辺のものはすーっと吸い取られた。そして飛び出た両の眼は一つ所に定められて動かなかった。背中の斑点が呼吸のためにかすかに動いていた。
私の両の眼もじっと蝦蟇を見つめて動かなかった。そして私も呼吸をしていた。私達は二つの別なものでもあれば、また一つのものでもあった。そのままで三十分余りもたつことがあった。勿論私はその時、時間などのことは全く忘れてはいたが。
何故に? 何のために? ということが私の問題ではなかった。如何にする? 如何になる? ということが私の問題でもなかった。否、凡そ「何」という字のつくことは全く問題ではなかった。それならば?……それは私にも分らない。私はただじっと蝦蟇を見ていた。それが如何にも落付いていた。
そのうちにあのことが起ったのだ。その時私は何かしら
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