でした。
 美津子さんは物を書いたり読んだりすることには、じつに熱心でしたが、その反面、家事のことや炊事のことは、投げやりのようでした。洗濯もあまりなさらないし、たいていの物は洗濯屋に出してしまい、繕い物もあまりなさらないようでした。魚屋と八百屋は御用聞きが来て、註文の品物を配達してくれますので、日常の買出しの用事もあまりありませんでした。
 出版社というものは、どういうところかわたくしは存じませんが、良吉さんの出勤は朝遅く、たいてい十時頃でしたが、お帰りはまちまちで、早かったり遅かったりしました。早い時には、缶詰や瓶詰や牛肉の包みなどをぶら下げておいでになり、美津子さんと一緒に夕食の仕度をなさることもありましたが、そのお帰りが遅いと、美津子さんは有り合せの物で、いい加減に食事をお済ませになりました。御一緒の食事の時には、酒をお飲みなさることもありました。
 ある晩、だいぶ長く酒を飲んでいらっしゃるようでしたが、遅くなってから、お二人の声がだんだん高くなり、喧嘩でもなさってる様子でした。わたくしも母も、それには意外な気が致しました。いつも仲睦じいお二人だとばかり思っておりましたのです。別に聞き耳を立てたわけではなく、何を言い争っていらっしゃるのか分りませんでしたが、ただならぬ声の調子でしたし、食卓を叩く音がしたり、杯を打ち割る音がしたりして、それがいつまでも続きますので、へんに寒々とした気持ちになりました。そしてわたくしたちは寝ましたが、あとで、母から聞いたところに依りますと、お二人は夜通し言い争っていらしたらしいとのことでした。
 その翌朝、良吉さんは御飯もあがらず、早く出かけておしまいになりましたが、美津子さんは正午すぎまで寝ていらしたようでした。
 それが最初で、それからは、時折喧嘩なさることがあるようでした。喧嘩と言っても、打つとか殴るとか、取っ組み合うとかいうのではなく、ただの言い争いにすぎませんでしたし、それも短い間のことで、あとはお二人とも黙りこんでおしまいになりました。
 ところが、ある時、美津子さんはお風呂から帰って来て、いきなりわたくしへ尋ねました。
「留守の間に、京子さんが来はしませんでしたか。」
 京子さんなんて、初めて聞く名前なものですから、わたくしには見当がつかず、母へ尋ねますと、母はただ、そんなひとはおいでになりませんでしたと答えました
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