花ふぶき
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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千代は少し白痴なのだ。高熱で病臥している折に、空襲で家を焼かれ、赤木の家に引き取られて、あぶなく脳膜炎になりかかった、そのためだと赤木は言うが、確かなことは分らない。口がゆがみ、眼尻がへんに下り、瞳が宙に据り、そして頬の肉にはしまりがなくて、今にもにやりと笑いそうだ。不自然なほど肌色が白い。外を出歩くのが好きで、そろりそろりと、重病人のように、或は足に故障でもあるかのように、ゆっくり歩いている。いつもすりへったぺしゃんこの下駄で、それも片方がよけいへってるちんばだ。銘仙の衣類にメリンスの帯と、みなりだけはまあ普通だが、帯のしめ方がぐずぐずで、襟元がはだけてるので、汚いぼろをまとってるのよりは却って、猥らないやらしさがある。
おれが[#「 おれが」は底本では「おれが」]復員してきて、赤木を頼ってやって来た時、彼女は、焦点のきまらないような眼を、おれの方にじっと向けた。視力のこもらぬその眼付と、頬から頸筋へかけた皮膚のだだ白さに、おれは、魚の肌にでも触れるような感じを受けた。赤木の妻の嘉代さんが、「仲本の新治さんじゃないか、挨拶をなさい、」と促すと、彼女はにやりと笑って、「こんちは、」と言った。千代はいったい幾歳なのかしら、二十歳ほどでもあろうかと、おれは突然考えてみた。――千代は嘉代さんの姪であり、おれは赤木の親戚筋だから、おれと千代とは以前から識らない間柄ではないのだ。
赤木の家は、大きな坂の下にあって、焼け残りの謂わば部落の出外れになっている。昔は粗末なカフェーで、女給が三人ばかりいた。終戦後、その店を赤木は改造して、おでん小料理屋を始めた。坂にはもうバスも通らなくなり、焼け跡ばかり広々と見渡せるそんな場所でと、嘉代さんはあやぶんだそうだが、案外なもので、頗る繁昌した。やがて、おでんの鍋には蓋がかぶさったきりで、小料理専門となり、金のある常連の足溜りとなった。表側の土間のほかに、奥に一室と二階に二室ある。時々特別の客があって、表戸をしめ、二階の室だけが使われる。――千代は殆んど役に立たないし、赤木夫婦だけでは手不足のところへ、おれがうまくやって来たというものだ。
戦地の話を、おれはまた繰り返さねばならなかった。――南方の小さな島で、長い間食糧の補給がとだえ、兵隊たちは飢餓のために発狂する者まで出て来た。空腹どころではなく、全く飢餓だった。どうやら食用になる野草の球根や蔓茎を植えるのに、足だけで体を支えることができず、四つん這いにならねばならなかった。――その真似をして、おれは少し酒もまわっていたので、畳の上を這ってみせた。
そばで見ていた千代が、声を立ててげらげら笑った。おれは睥みつけてやった。
「笑いごとじゃないよ。」
千代はなかなか笑いやまなかった。
おれにとっての深刻な経験も、まるで茶番になってしまった。おれは話をやめて、やけ酒を飲んでやった。
それだけなら、まだよかったが……。翌日、千代は裏の畑の草取りをした。季節向きのいろんな野菜が作ってあり、店の料理の材料ともなるのである。耕作は赤木が受け持ち、草取りはおもに千代がさせられる。ところがその日、千代は畑の畦の間に、膝頭と肱とで四つん這いになって、着物を泥だらけにしている。前の晩におれが話した通りの姿勢だ。それを見つけて、おれは進んで行った。拳をにぎりしめ、だまって見つめた。千代はちょっと振向いて、にやりと笑った。その臀を、おれは思いきり引っ叩いてやった。
千代はころりと横に倒れた。おれはただ見ていた。やがて彼女は起き上り、跣のまま、家の方へ戻っていき、急にしくしく泣き出して、裏口へはいって行った。
おれは外から様子を窺った。――千代はしゃくりあげて泣いている。嘉代さんが着物の泥を払ってやりながら、すかすように尋ねている。どうしたのか。転んだのか。誰かに悪戯でもされたのか。どうしたのか。いくら尋ねても、千代は返事をしないで、ただ泣いている。
おれはそこへはいって行った。千代はおれを見向きもしないが、嘉代さんが訴えるように言う。
「ほんとに、この子は、まるで赤ん坊ですよ。頭が少し悪いものですから、せめて、みなりだけなりと……そう思って、わたしがいくら気をつけてやっても、すぐにこうなんですよ。それでも、泣くことなんかないのに。……大きいなりして、いつまで泣いてるんですか。さあ、もういいから、足を洗っていらっしゃい。」
おれは何にも言うことがなかった。店の方へ行って、煙草をふかした。忌々しかったのだ。――嘉代さんが、白痴の姪をふびんがって、いたわってやる気持は、分らないことはない。だが、千代はいったい何と思ってるのだろう。おれに殴られたことをなぜ言わないのか。自分の方が悪かったなどと、そんな分別のつく彼女ではない。或は、彼女はおれのことなど完全に無視してるのかも知れない。
おれのことばかりではない、彼女自身のことも、彼女は無視してるようだ。――嘉代さんの時折の言葉を綜合してみると、千代の正体が次第にはっきりしてくる。
いつも千代は、嘉代さんと一緒にお風呂に行く。そんな時、嘉代さんは千代をなるべく早く歩かせる。そろりそろりと、下駄をひきずって、重病人のように歩く、その歩調に嘉代さんが従わないで、自分の歩調に千代を従わせようとするのだ。普通の人のように歩く癖をつけてやろうと、訓練するためなのであろうか。
或る時、千代は嘉代さんに後れないよう、相並んで、街路を横ぎりかけた。とたんに、一台のトラックが疾駆してきた。嘉代さんは立ち止ったが、千代は二三歩先に出た。手をつないで歩いてたわけではないのだ。嘉代さんは息をつめて、千代の袖を捉えた。瞬間、トラックは鼻先をかすめて過ぎた。同時に、千代は捉えられてる片袖を振り払い、両袖を顔に押し当てて棒立ちになった。暫く動かなかった。
「まっ黒なつむじ風が通りすぎた。」と漸くに千代は言った。
「つむじ風じゃないよ。トラックよ。」
「いいえ、まっ黒なつむじ風だった。」
そして風呂屋に着くまで、トラックとまっ黒なつむじ風とが繰返されたのである。それから、浴槽につかろうとする時、千代はいきなり、浴槽の湯を桶にくんで、頭から浴びてしまった。まっ黒なつむじ風を洗い落すつもりだったのだろう。
それはとにかく、そんなことは実に珍らしいのだ。千代はいつも、浴槽のそばにつっ立ったまま、なかなか湯にはいろうとしない。その代り、湯にはちょっとつかったきりで、すぐに出てしまう。その後が困る。両手をだらりと垂れて、流し場につっ立ったきりだ。大勢の人が屈みこんでる真中に、ただつっ立って、なにか考えるように足元に眼をやっている。下腹も恥部も股も、むき出しだ。全然羞恥の感など無いようだ。嘉代さんが桶に湯をくんでやって、さあ洗いなさいと促すと、はじめてそこに屈みこむ。
千代のその姿は、想像しただけでも忌わしい感じを与える。流し場に素っ裸で、両手をだらりと垂れて、どこ一つ隠そうとしない、傍若無人の態度は、もはや一の態度ともいえないほどの下劣さだ。それが而も、へんにだだ白い肌で、体躯のことはおれは知らないが、下駄がちんばにへってるところを見ると、恐らく両脚は不揃いで、顔立といったら、口がゆがみ、眼尻がひどく下り、にやりと笑いそうに頬がゆるんでいて、醜悪といってもよい。もしこれが美人であるならば、大理石の彫像とか、木影のひそやかな沐浴姿とか、そういった古代趣味を連想させるものがあるかも知れないが、千代は全くその反対だ。
そういう裸像が、平素の千代と重り合うと、おれは忌わしい気持になるばかりでなく、憎悪をさえも感ずるのだ。白痴だということだけでは許されない。白痴にも白痴美というものがある。だが千代には何等の美も認められない。ただ下劣で醜悪だ。その千代が、彼女自身を無視するのは、それはまあ彼女の勝手だとしても、このおれを無視しているのだ。おればかりではない。店に来る客たちをもそうだし、赤木をもそうだ。日常、赤木の言うことやおれの言うことを、彼女は殆んど耳に入れないかのようである。ただふしぎにも、嘉代さんの言うことにはよく従う。
一見したところ、千代の薄野呂は、脳膜炎の結果かとも見えるし、遺伝梅毒のそれかとも見えるし、其他の悪疾のそれかとも見える。嘉代さんの注意で、彼女はそう不潔ではなく、臙脂色系統の衣類をまとっているが、そのため却ってなにか疾患的不気味さを感じさせる。そういう彼女がいるこの店に、多くの人が飲食に来ることは、おれには腑に落ちない。おれだったら、千代を見れば、もう二度とは来ないだろう。
もっとも、ここの料理は、素人風だが場所柄としてはわりに品質がよい。客の多くは食いに来るよりは寧ろ飲みに来るのだが、その酒が、日本酒にしても、日本物だがウイスキーにしても、銀座裏などに比べても遜色はない。この点に赤木は頗る努力しているのだ。それから実は、千代はあまり客の前に出ないようになっている。奥の室で、お燗番をしたり、野菜をえり分けたり、下駄の鼻緒を拵えたり、ほどき物をしたりする。そんな仕事を、畑の草取りと同様に、彼女はよくやってのける。用がないと、居眠りをしていて、最後の後片付けに呼び起される。それでも、やはり客の前に顔を出すこともあるが、少しぐずついていると、嘉代さんが奥へ追いやる。嘉代さんがうっかりしている場合には、赤木が嘉代さんに注意することもある。赤木は殆んど千代にじかに言葉をかけない。ただ睥みつけるだけだ。
近所の下品な酔客が、時とすると、千代をからかう。
「千代ちゃん、いつ結婚するんだい。」
「知りません。」と千代は答える。
「いい旦那さんがすぐそばにいるじゃないか。」
「知りません。」と千代は答える。
千代は実際、そんなことには関心がないらしい。彼女の相手は、火鉢の炭火や、畑の野菜や、焼け跡の草原や、忍び込んでくる野良猫ばかりのようだ。然し、隅っこで下洗いをしているおれには、酔客の冗談がおれを種にしてることがよく分る。ふだんは苦笑するだけだが、虫の居所が悪いと、おれはむかついてくる。その男の頭に、また千代の顔に、皿や小鉢を打っつけてやりたくなることもある。
千代がいなかったら、どんなにここは明るくなることだろう。そういう思いがおれの胸の中に巣くっていた。そのことが、やがて、世の中にも通ずる。千代がいなかったら、どんなに世の中は明るくなることだろう。――それを、おれは肯定する。陰惨な戦争は済んだ。おれ達の世界は立て直しだ。平和国家だの、民主主義だの、無血革命だの、そんなことはおれには縁遠いものに思われた。それよりも、おれの生活、つまりおれの世界を、自由な境地に繰り拡げることだ。それには、そういう自由には正義とか不正義とかいうことよりも、美とか醜とかいうことが問題だ。美は心を自由に開いてくれる。醜は心を不自由に閉す。醜悪はおれの世界から絶滅しなければならない。そして千代はいろいろな意味で、醜悪の一つの代表なのだ。
そういうわけで、おれは千代の病院入りに賛成した。
そのことを、赤木がひそかにおれに相談したのだ。――二階の室を使う特別客の仲間の一人に、古賀さんという中年の男がいて、その知人に脳病院の医者がある。千代の様子を話してみたところが、その軽度のものなら、全快はしないまでも、いくらかよくなるかも知れないから、二三ヶ月預ってみてもよいとのこと。
「どうだろう。」と赤木は探るようにおれの顔を見た。
どの点から考えても、おれは賛成だ。
ところが、赤木は、おれと二人きりなのに声をひそめた。
「問題は嘉代だよ。あれは、千代を自分の娘のように可愛がっておる。なかなか手離したがるまい。それに入院費のこともぐずぐず言うだろう。然しだね、ただ可愛いいとか、入院費とかの
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