ために、なおる病気もなおさないのは、大きい目で見て、ふびんなことじゃないか。ただちょっと、おれからは話しにくい。逐っ払いでもするように、気を廻れちゃ困る。君から、当らず障らず、説き伏せてはくれまいかね。」
そうなると、おれには重荷だ。古賀さんの話にしても、おれが直接聞いたわけではない。然しまあとにかく、嘉代さんにはそれとなく吹き込んでおいて、皆で一緒に相談してきめることにした。
ところが、おれがそのままぐずついてるうちに、古賀さんの方が性急で、或る晩、自ら直接に嘉代さんへ話をもち出した。――これはおれも迂濶だった。おれなんかが嘉代さんへ話をするよりは、古賀さん自身でじかにするのが当然だ。
だが、その晩は妙な工合だった。古賀さんは一人できて、二階ではなく、階段の上り口の奥の室に坐りこんで、一人で飲みだした。赤木がちょっと相手をして、なにかひそひそ打ち合わせてるらしかった。そして表の土間の客の方は、早めに切り上げてしまった。酒がもうないと、赤木は何度もいった。そのくせ、表を閉めてしまってから、古賀さんへはいくらでも銚子を出した。
古賀さんはもうだいぶ酔っていた。赤木も嘉代さんも、遠慮なく彼の杯を受けた。高笑いが起った。話声が高くなり、また低くなった。病院、神経、電気、などという言葉が聞えた。ははあそうか、とおれは合点した。暫く話がとだえた。
「千代ちゃん、ちょっといらっしゃい。」と嘉代さんが呼んだ。
おれ一人が店の後片付けか、と思っていると、赤木が呼んでくれた。
「おい仲本、君もまあ一杯やれよ。」
古賀さんは機嫌がいいようだった。大した会社でもないらしいがその社長で、商工省の何かの囑託をしてる彼は、機嫌のよい時には、チョッキの胸ポケットに親指をつっこむ癖がある。今もその癖を出しながら、千代とおかしな問答をしてるのだ。
「千代ちゃん、」と彼は親しそうにいう。「千代ちゃんは、雀と燕と、どっちが好きかね。」
「雀が好き。」と千代は答える。
「それじゃあ、雀と烏と、どっちが好きかね。」
「雀が好き。」と千代は答える。
「それじゃあ、雀と鳩と、どっちが好きかね。」
「雀が好き。」と千代は答える。
「それじゃあ、こんどは、雀と鳶と、どっちが好きかね。」
「雀が好き。」と千代は答える。
「そんなら、雀と鶴と、どっちが好きかね。」
「雀が好き。」と千代は答える。
それで問答はとぎれた。古賀さんは嘉代さんの方へ乗り出して声を低めて言った。声を低めても、相当に酔ってるから、おれにまで聞える。
「はっきりしていますね。はっきりしているけど、偏執ですね。それだけだから、なおりますよ。」
おれは赤木をつっついて、コップで酒をあおってやった。何もかも、そうだ何もかも、忌々しいのだ。
古賀さんは、天ぷらの一切れを口に入れた。鯖の切身をちょっとごまかして、下等なピーナツオイルで揚げたものだ。なにしろ素人料理なのだ。それから古賀さんは酒を飲んだ。短髪の大きな顔をにこにこさしている。
「千代ちゃん、叔母さんと叔父さんと、どっちが好きかね。」
叔母さん叔父さんは、赤木夫婦のことだ。――千代は、すました顔で、返事をしない。
「それでは、叔母さんと仲本さんと、どっちが好きかね。」
千代はすました顔で、返事をしない。
「あんまりいじめちゃ、可哀そうだ。」
おれは思わず言ってしまった。
古賀さんは、きっとおれの方を見たが、すぐに笑った。
「そうだ。判断力がないからね。然し、このぶんならなおるよ。病院でゆっくり治療さしてやりましょう。」
誰も黙っていた。時たって頓狂に、赤木が言った。
「そうして頂きましょうか。ねえ仲本、それがいいね。」
「いいかも知れませんね。」とおれは機械的に答えた。
それよりも、おれは、先程からの嘉代さんの様子に気を惹かれていた。――嘉代さんはじっと伏目がちに、横額をぴりぴりさしていた。実際に動いてるわけではないが、その緊張が見えるようなんだ。肥満してるというわけではないが、こういう商売をしている四十女の重量がこもってる横額のぴりぴりは、無視出来ないものを持っている。
古賀さんは、千代の手首を握った。口がゆがみ、眼尻が垂れ、肌がいやにだだ白い、白痴の彼女の手首を、握手するように握りしめてるのだ。
「千代ちゃん、明日から病院に行こう。そしてほんとうに頭がはっきりしてから、戻ってくるんだ。叔母さんや叔父さんや、みんなで迎えに行くよ。」
彼は千代の手を引っ張って、その醜悪な娘を、膝に抱こうとしたらしかった。が手を離して、後ろに転げた。――おれにもよく分らないが、千代が、手首を取られてるその指先で、彼の皮膚を思いきり抓ったものらしい。
そんなことがあっても、ふしぎに、千代はいつもの通りの表情、今にもにやりと笑いそうな顔付で、そしてそれが一座の中にきょとんとした感じで、戸棚の上のめくり暦の方へ眼をやっている。
おれは席を立った。根本的にばかげた感じだ。店の方へ行って、構うことはない、一升壜から冷酒をコップについで、それをあおりながら、がしゃがしゃ洗い物をした。それが済んでもまだ、みんなが食卓のまわりにぐずってるので、裏木戸から外に出た。
ぱっとした煌々たる月夜だ。少し歩いていって、柔かい畑地よりも、堅い往来のまん中に、しゃーと小便をしてやった。ずいぶんたまっていたのを、すっかり空にして、いい気持にして、月明の中を歩いた。春たけなわといっても、夜気はひいやりとしている。
家に戻ると、もうみんな寝たらしい。赤木夫婦は二階の室に、千代はその横の小部屋に、そしておれは階下の室に、寝場所はきまっている。電燈だけが明るい、が、外の月夜よりは薄暗い感じだ。おれはも一杯酒を飲み、同じコップで二杯水を飲んで、布団にもぐりこんだ。
その翌日が大変だ。おれは寝坊してるところを、赤木にたたき起され、飯をたいてくれと言うのだ。いったい、朝も晩も、米飯は嘉代さんが自分でたくにきまっている。おれは腑におちなくて、赤木の皮膚の厚い感じの顔を眺めた。
「少しおかんむりなんだ。病院へは僕がついて行くことになってるのに、嘉代は、自分で行くと言いだして、僕には来ちゃあいけないというんだ。まあ……気のすむようにさしとくさ。とにかく、飯はたいてくれよ。」
だいたい、へんな夫婦なんだ。赤木は世間的な策士で、すべてに如才がない。嘉代さんはちょっと気取りやで、向う意気が強いくせに、その大きなお臀のような善良さを底に持っている。表面は女房が亭主を尻に敷いてるようで、陰では亭主が女房を操っているのだ。
だが、どうも、赤木は今、嘉代さんを操りかねているらしい。なにかそわそわしていた。嘉代さんの方でも、赤木を尻に敷きかねているらしい。――これもなにかそわそわしていた。おれだって、御多分にもれない。宿酔の気味もあったが、釜の下の火がよく燃えなかった。
「千代ちゃん、千代ちゃーん、どこにいるの。」
嘉代さんの大きな叫び声が響き渡った。
飯さえできればあとはどうでもよいと思って、家の中の落着かない雰囲気をよいことに、おれはちょっと迎い酒をやっていた。
「千代ちゃんは知りませんか。」と嘉代さんはのしかかるように尋ねる。
おれは今朝から、いや、昨夜外に出た時から、もう千代の姿を見なかった。――聞けば、病院に、とにかく診察を受けに行くために、着替えをさしたが、それきり、彼女は消えて無くなったというのだ。
赤木は冷静に首をひねって、家中をあちこち覗き見て、それから、外を見廻ってくるとて出て行った。
嘉代さんはおれを土間の隅っこに引張って言った。
「もう病院なんか行かないから、あの子を探して来て下さい。」
おれにはのみこめないのだ。
「あの子がいやがるのを、お花見に行くんだと言って、着物を着替えさしたんです。お宮の方ですよ。きっと。連れてきて下さい。」
おれが出かけようとすると、嘉代さんは突然泣きだしておれの腕をつかまえた。――大それた話をおれは聞いた。古賀さんは、大量の砂糖を隠匿してるらしい。時価一千万円近い量だともいう。その一部を、赤木の二階に預って貰いたいのだ。料飲店だから却って人目につかないと、苦肉の策だ。ただ困ったことに、白痴の千代がいる。正気の者なら口止めは出来るが、白痴の口止めは不可能に近い。そこで、暫く彼女を病院に入れることに、赤木と相談が出来た。ところが、古賀さんの現物の方に、現状では摘発される危険が迫ってきた。事情を聞いて嘉代さんも、承諾するともしないともつかない状態に追いこまれたらしい。固より、莫大な報酬がついてるのだ。それよりも更に、彼女はあまりに善良なのだ。大体そんなことらしい。
嘉代さんは泣いていた。
おれは気持が引っくり返った。冷酒をあおって、そのコップを土間に叩きつけて、微塵に砕いてやった。
それでもおれは胆を落着けて、駆け出しはしなかった。ゆっくり坂を上って行った。坂を上りきった左手の方、神社の境内に、数株の桜の台木が、満開すぎの花をつけている。少しかすんだ陽光が大気中に漲っていて、花はへんに造花のような趣きがある。
坂に通ずる大道からわきにそれて、おれは桜の方へやって行った。神社の境内の彼方には人家があるが、こちら側はすべて焼け跡で、人の姿も殆んど見られない。
千代がそんなところにいるかどうか、これは嘉代さんの幻想で、自分の虚言を救うための口実なのだろう。それを嘉代さんが本当に信じてるとするならば、なぜ自分で探しに出かけなかったのだろうか。
その時、おれは急に胸を衝かれた。嘉代さんの最後の言葉を思いだしたのだ。
「わたしが行くと、泣いちゃうにきまってる。あんたなら丁度いい。静かに連れてきて下さいよ。」
相手は白痴だ。その白痴の神経をいたわれというのか。しかし連れて帰ったあとはどうなんだ。嘉代さんは泣かないだろうか。泣いても……そうだ、家の中のことだ、世間ていなんかないわけだ。
おれ一人、思えば、みんなのだしに使われてるようだ。ばかばかしい限りだ。どうにでもなるがいい。こんなところに千代がいるものか。
おれは足を早めた。午前中の大気はすがすがしく穏やかだが、時をおいて、へんに強い風が流れる。もっと強く風が吹けば、空の薄らがすみも晴れ渡るだろう。
神社の境内はひっそりしていた。見渡しても千代はいない……。だが、彼方に、じっと佇んでるのが、やはり千代だった。
相変らず臙脂系統の衣類だが、いつものと違って、大きな御所車の模様が浮き出している。首が短くて髪はひっつめで、顔は一見して白痴の相だ。ぼんやりつっ立って上を仰いでいる。桜の花弁が一輪二輪、散ってるようだが、また、さーっと風が流れると、一面に、と思えるほどの花ふぶきになった。その花弁を、千代は袖に受けて、指先でかき集め、口に持っていってかじりはじめた。
おれの方が狂気の思いだった。憎悪の念などは吹っ飛んで、愛情、じゃあない、彼女と同類の気持ちだ。負けた、という思いがちらとひらめたが、あとはしいんとなった。花ふぶきのあとの花弁が、まだ空中に舞っている。おれは千代の方へ歩みよった。彼女は見向きもしない。その頬へ、おれは平手打ちを一つ喰わした。と同時に、おれは彼女の腕を執って、黙ったまま、家の方へ歩きだした。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「風雪」
1948(昭和23)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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