には、赤木が嘉代さんに注意することもある。赤木は殆んど千代にじかに言葉をかけない。ただ睥みつけるだけだ。
 近所の下品な酔客が、時とすると、千代をからかう。
「千代ちゃん、いつ結婚するんだい。」
「知りません。」と千代は答える。
「いい旦那さんがすぐそばにいるじゃないか。」
「知りません。」と千代は答える。
 千代は実際、そんなことには関心がないらしい。彼女の相手は、火鉢の炭火や、畑の野菜や、焼け跡の草原や、忍び込んでくる野良猫ばかりのようだ。然し、隅っこで下洗いをしているおれには、酔客の冗談がおれを種にしてることがよく分る。ふだんは苦笑するだけだが、虫の居所が悪いと、おれはむかついてくる。その男の頭に、また千代の顔に、皿や小鉢を打っつけてやりたくなることもある。
 千代がいなかったら、どんなにここは明るくなることだろう。そういう思いがおれの胸の中に巣くっていた。そのことが、やがて、世の中にも通ずる。千代がいなかったら、どんなに世の中は明るくなることだろう。――それを、おれは肯定する。陰惨な戦争は済んだ。おれ達の世界は立て直しだ。平和国家だの、民主主義だの、無血革命だの、そんなことはお
前へ 次へ
全20ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング