が迫ってきた。事情を聞いて嘉代さんも、承諾するともしないともつかない状態に追いこまれたらしい。固より、莫大な報酬がついてるのだ。それよりも更に、彼女はあまりに善良なのだ。大体そんなことらしい。
 嘉代さんは泣いていた。
 おれは気持が引っくり返った。冷酒をあおって、そのコップを土間に叩きつけて、微塵に砕いてやった。
 それでもおれは胆を落着けて、駆け出しはしなかった。ゆっくり坂を上って行った。坂を上りきった左手の方、神社の境内に、数株の桜の台木が、満開すぎの花をつけている。少しかすんだ陽光が大気中に漲っていて、花はへんに造花のような趣きがある。
 坂に通ずる大道からわきにそれて、おれは桜の方へやって行った。神社の境内の彼方には人家があるが、こちら側はすべて焼け跡で、人の姿も殆んど見られない。
 千代がそんなところにいるかどうか、これは嘉代さんの幻想で、自分の虚言を救うための口実なのだろう。それを嘉代さんが本当に信じてるとするならば、なぜ自分で探しに出かけなかったのだろうか。
 その時、おれは急に胸を衝かれた。嘉代さんの最後の言葉を思いだしたのだ。
「わたしが行くと、泣いちゃうにきまって
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