いや、昨夜外に出た時から、もう千代の姿を見なかった。――聞けば、病院に、とにかく診察を受けに行くために、着替えをさしたが、それきり、彼女は消えて無くなったというのだ。
 赤木は冷静に首をひねって、家中をあちこち覗き見て、それから、外を見廻ってくるとて出て行った。
 嘉代さんはおれを土間の隅っこに引張って言った。
「もう病院なんか行かないから、あの子を探して来て下さい。」
 おれにはのみこめないのだ。
「あの子がいやがるのを、お花見に行くんだと言って、着物を着替えさしたんです。お宮の方ですよ。きっと。連れてきて下さい。」
 おれが出かけようとすると、嘉代さんは突然泣きだしておれの腕をつかまえた。――大それた話をおれは聞いた。古賀さんは、大量の砂糖を隠匿してるらしい。時価一千万円近い量だともいう。その一部を、赤木の二階に預って貰いたいのだ。料飲店だから却って人目につかないと、苦肉の策だ。ただ困ったことに、白痴の千代がいる。正気の者なら口止めは出来るが、白痴の口止めは不可能に近い。そこで、暫く彼女を病院に入れることに、赤木と相談が出来た。ところが、古賀さんの現物の方に、現状では摘発される危険が迫ってきた。事情を聞いて嘉代さんも、承諾するともしないともつかない状態に追いこまれたらしい。固より、莫大な報酬がついてるのだ。それよりも更に、彼女はあまりに善良なのだ。大体そんなことらしい。
 嘉代さんは泣いていた。
 おれは気持が引っくり返った。冷酒をあおって、そのコップを土間に叩きつけて、微塵に砕いてやった。
 それでもおれは胆を落着けて、駆け出しはしなかった。ゆっくり坂を上って行った。坂を上りきった左手の方、神社の境内に、数株の桜の台木が、満開すぎの花をつけている。少しかすんだ陽光が大気中に漲っていて、花はへんに造花のような趣きがある。
 坂に通ずる大道からわきにそれて、おれは桜の方へやって行った。神社の境内の彼方には人家があるが、こちら側はすべて焼け跡で、人の姿も殆んど見られない。
 千代がそんなところにいるかどうか、これは嘉代さんの幻想で、自分の虚言を救うための口実なのだろう。それを嘉代さんが本当に信じてるとするならば、なぜ自分で探しに出かけなかったのだろうか。
 その時、おれは急に胸を衝かれた。嘉代さんの最後の言葉を思いだしたのだ。
「わたしが行くと、泣いちゃうにきまって
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