てそれが一座の中にきょとんとした感じで、戸棚の上のめくり暦の方へ眼をやっている。
 おれは席を立った。根本的にばかげた感じだ。店の方へ行って、構うことはない、一升壜から冷酒をコップについで、それをあおりながら、がしゃがしゃ洗い物をした。それが済んでもまだ、みんなが食卓のまわりにぐずってるので、裏木戸から外に出た。
 ぱっとした煌々たる月夜だ。少し歩いていって、柔かい畑地よりも、堅い往来のまん中に、しゃーと小便をしてやった。ずいぶんたまっていたのを、すっかり空にして、いい気持にして、月明の中を歩いた。春たけなわといっても、夜気はひいやりとしている。
 家に戻ると、もうみんな寝たらしい。赤木夫婦は二階の室に、千代はその横の小部屋に、そしておれは階下の室に、寝場所はきまっている。電燈だけが明るい、が、外の月夜よりは薄暗い感じだ。おれはも一杯酒を飲み、同じコップで二杯水を飲んで、布団にもぐりこんだ。

 その翌日が大変だ。おれは寝坊してるところを、赤木にたたき起され、飯をたいてくれと言うのだ。いったい、朝も晩も、米飯は嘉代さんが自分でたくにきまっている。おれは腑におちなくて、赤木の皮膚の厚い感じの顔を眺めた。
「少しおかんむりなんだ。病院へは僕がついて行くことになってるのに、嘉代は、自分で行くと言いだして、僕には来ちゃあいけないというんだ。まあ……気のすむようにさしとくさ。とにかく、飯はたいてくれよ。」
 だいたい、へんな夫婦なんだ。赤木は世間的な策士で、すべてに如才がない。嘉代さんはちょっと気取りやで、向う意気が強いくせに、その大きなお臀のような善良さを底に持っている。表面は女房が亭主を尻に敷いてるようで、陰では亭主が女房を操っているのだ。
 だが、どうも、赤木は今、嘉代さんを操りかねているらしい。なにかそわそわしていた。嘉代さんの方でも、赤木を尻に敷きかねているらしい。――これもなにかそわそわしていた。おれだって、御多分にもれない。宿酔の気味もあったが、釜の下の火がよく燃えなかった。
「千代ちゃん、千代ちゃーん、どこにいるの。」
 嘉代さんの大きな叫び声が響き渡った。
 飯さえできればあとはどうでもよいと思って、家の中の落着かない雰囲気をよいことに、おれはちょっと迎い酒をやっていた。
「千代ちゃんは知りませんか。」と嘉代さんはのしかかるように尋ねる。
 おれは今朝から、
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