る。あんたなら丁度いい。静かに連れてきて下さいよ。」
 相手は白痴だ。その白痴の神経をいたわれというのか。しかし連れて帰ったあとはどうなんだ。嘉代さんは泣かないだろうか。泣いても……そうだ、家の中のことだ、世間ていなんかないわけだ。
 おれ一人、思えば、みんなのだしに使われてるようだ。ばかばかしい限りだ。どうにでもなるがいい。こんなところに千代がいるものか。
 おれは足を早めた。午前中の大気はすがすがしく穏やかだが、時をおいて、へんに強い風が流れる。もっと強く風が吹けば、空の薄らがすみも晴れ渡るだろう。
 神社の境内はひっそりしていた。見渡しても千代はいない……。だが、彼方に、じっと佇んでるのが、やはり千代だった。
 相変らず臙脂系統の衣類だが、いつものと違って、大きな御所車の模様が浮き出している。首が短くて髪はひっつめで、顔は一見して白痴の相だ。ぼんやりつっ立って上を仰いでいる。桜の花弁が一輪二輪、散ってるようだが、また、さーっと風が流れると、一面に、と思えるほどの花ふぶきになった。その花弁を、千代は袖に受けて、指先でかき集め、口に持っていってかじりはじめた。
 おれの方が狂気の思いだった。憎悪の念などは吹っ飛んで、愛情、じゃあない、彼女と同類の気持ちだ。負けた、という思いがちらとひらめたが、あとはしいんとなった。花ふぶきのあとの花弁が、まだ空中に舞っている。おれは千代の方へ歩みよった。彼女は見向きもしない。その頬へ、おれは平手打ちを一つ喰わした。と同時に、おれは彼女の腕を執って、黙ったまま、家の方へ歩きだした。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「風雪」
   1948(昭和23)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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