それに比べると、男はまるで赤ん坊だ。どんなに秘密に事を運ぼうとしても、すぐに尻尾を出すからね。」
「しかし君、秘密に姙娠する、それだけはちと言いすぎたね。」
「ははは、男が知らないうちに、と訂正するか。」
そしてもう一笑に附されてしまった。噂の真偽などは問題でなかった。軽蔑と無関心とは紙一重の差だったのである。
丁度その頃のことである。
小泉美枝子は少しく思い悩んでいた。彼女自身にも訳の分らない欝陶しさで、一時間も、二時間も、ぼんやりしていることがあった。それでも、来客にはすべて快活に応対した。習性なのである。
浅野正己が来た晩、美枝子は彼を応接室の方へ通さした。中学生の哲夫の勉学を週に二回ほど見てもらってる男なので、哲夫が風邪の心地で寝ているところだから、そのまま帰してもよかったのだが、ちょっと心にかかることがあったのである。彼女は哲夫の様子を見て、それから応接室へ出て行った。
浅野はつっ立って、壁にかかってる洋画の風景を眺めていた。慌てたようにお時儀をして、まだ立っていた。
「どうぞ。」
窓際の小卓を美枝子は指して、自分は横手のソファーに腰を下した。
「哲夫君、いかがですか。」
「ちょっと風邪の気味ですけれど、一日か二日、臥っておりましたら、なおろうかと存じます。お知らせするひまがなくて、済みませんでしたね。」
「いえ、僕の方は構いませんが……どうぞ、お大事に。」
も少し居たものか、すぐに辞し去るべきか、浅野は迷ってるらしかった。
美枝子の頬にかすかな微笑が浮んだ。彼女は卓上に片肱をつき、手先で煙草をもてあそびながら、浅野を眺めた。
浅野はいつも、彼女に対して、おずおずとした卑下した態度、むしろ彼女を避けるような態度を取っていた。哲夫の勉強がすんで帰り際に、お鮨でもと言って茶の間に呼ばれても、何かの口実を設けて、さっと帰ってゆくのだった。それでも、古くからの知り合いなのだ。美枝子の亡夫は、ずいぶん彼の面倒をみてやり、彼が専門学校を無事に卒業出来たのも、半ばは亡夫の援助に依るのだった。其後、彼はずっと出入りを続けている。哲夫の謂わば家庭教師となったのも、美枝子の好意に依ることで、多分の謝礼を受けている。けれども彼は、美枝子と親しむのをなんだか遠慮してるらしかった。
そして一方では、彼は美枝子に対して遠慮のない口を利いた。何事でも思い切って率直に言った。つい先日も、二人きりの時、彼女に言った。
「奥さん、しっかりして下さい。なんだか嫌な噂が伝わっておりますよ。僕は勿論、それを信じはしません。僕は……奥さんのためなら何でも致します。」
彼女は問い返そうとしたが、哲夫がそこへやって来たし、彼はあわただしく辞し去った。
美枝子が知ってる男たちは、殆んど凡てと言ってもよいくらい、彼女に対して、馴れ馴れしい態度を取り、一方では、持って廻った曖昧な言葉遣いをするのだった。それが、浅野はまるで正反対なのである。
髪の毛はこわくてばさばさだが、眼鏡をかけていない細面の顔は、蒼白い方で、上品にさえ見える。
「浅野さん。」と美枝子は呼びかけた。「あなたに、すこし伺いたいことがあるんですの。」
浅野がびっくりしたように顔を挙げると、美枝子は頬笑んでいた。
「哲夫のことですけれど、なんだか勉強に身がはいらないように思われますが、どういうものでしょうかしら。いったいに、この頃の中学生なんか、生意気になってるようですけれどね。」
その聞き方に、実は、身がはいっていないのだった。女中が持って来た紅茶に、彼女はウイスキーをさしてやり、自分の紅茶にもウイスキーをちょっぴりさして、匙ですくっては味をみ、またちょっぴりさして、匙で一掬いずつ味をみていた。子供が戯れに味わってるみたいで、銀の匙と小さな爪とが光りに映えていた。
「哲夫君のことなら、御心配いりませんよ。頭もよいし、真面目じゃありませんか。なにか、お気になることがありましたら、あの学校の担任教師に聞いてあげましょうか。」
浅野が勤めてる学校は、哲夫が通学してる学校とは別なのである。
「あなたがそう御覧なさるなら、それでもう結構なんですの。わたしが充分に面倒もみてやれませんので、どうかと思いましてね。なにしろ、田舎から預ってる子なものですから……。」
「然し、あなたによくなついてるし、あなたもたいへん可愛がっていらっしゃるし、それだけでもう充分ですよ。」
美枝子は眼でちらと笑った。青いような感じのする黒目である。
「でも、わたしにへんな噂でもたったりすると、いけませんわね。」
浅野が返事に迷っていると、美枝子はまた眼で笑った。
「あなたは、先日、わたしにへんな噂がたってると仰言ったわね。どんな噂でしょう。」
「では、なんにも御存じないんですか。」
「いいえ。」
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