化生のもの
豊島与志雄

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 小泉美枝子は、容姿うるわしく、挙措しとやかで、そして才気もあり、多くの人から好感を持たれた。海軍大佐だった良人を戦争で失い、其後、再婚の話も幾つかあったが、それには耳をかさず、未亡人生活を立て通していた。書生が一人、奥働きの女中が一人、下働きの女中が一人、それだけの家庭で、なお遠縁に当る中学生を一人預っている。近所の評判もよかった。
 ところが、近頃、知人たちの間に、ひそひそと交わされる噂が拡まっていった。美枝子に愛人があるらしいというのである。
「まあ、あのひとに。」
「そうなんですよ。」
「ほんとうかしら。」
「どうやら、ほんとうらしいんですの。でも、相手の男のひとが誰だか、さっぱり分らないそうですから、それがすこし、おかしいんですって。」
 美枝子の交際範囲の男たちを物色してみても、一向に見当はつかなかったし、噂の出所も不明だった。そうなってくると、噂そのものの真偽も疑われた。
 そのうちに、噂は別な形を取っていった。美枝子が姙娠してるらしいというのである。
「まあ、だんだん具体的になりますのね。」
「そうですよ。けれど、相手の男のひとが誰だか、やっぱり分らないそうですの。」
「ほほほ、聖母マリアみたい……。もっとも、あのひとは処女ではない筈ですけれど。」
「いまに、キリストさまがお産れなすったら、たいへんなことになりましょうね。」
「さあ、どうでしょうか。産れる前に、処置しておしまいなさるかも知れませんし。」
「そのようなこと、簡単に出来るものでしょうかしら。」
「いずれは、入院とか旅行とか、そんなことでございましょうね。」
 然し、美枝子の日常は聊かの変りもなかった。入院も旅行もなく、面やつれさえも見えず、芝居や映画やお茶の集りなど、平素の通りの社交ぶりだった。知人たちの好奇な眼を腹部に受けても、全く気にかけていないようだった。親しい友だちの間でも、噂がただ愛人のことに止まってるうちはまだしも、姙娠ということになってくると、さすがに、未亡人たる彼女に面と向って言い出すのは憚られた。但し愛人から姙娠へと、噂の移り方が時間的に早すぎはしたけれど、そのようなことに留意するのは、単なる交際上では無理だったろうし、第一、両者が同時に起ることだってあり得るのである。
 美枝子の腹部は少しもふくらんでこなかった。ただ、秋気が深まるにつれて、彼女はいくらか肥ってきたようだった。そして、煙草をもてあそぶことが多くなった。それも、もともと煙草好きというのではなかったし、時折、口先でふかすだけである。
「わたくし、なんだか肥ってきたようで、いやですわ。」と彼女は言った。
「却って、結構ではございませんの。どちらかと言えば、痩せていらっしゃる方ですもの。」
「それはそうですけれど、もしも、ぶくぶく肥ってきたら……と思いますと、いやになりますの。この年では、まだ、可哀そうでしょう。」
「いいえ、お気になさるほど肥ってはいらっしゃいませんよ。そんなこと仰言ると、わたくしなんか、あてつけみたいに聞えましてよ。」
「だって、わたくし、独り身ですもの。痩せてる方がよろしいわ。だから、こうして、煙草を吸うことにしていますの。煙草を吸ってると、肥らないそうですから。」
 彼女は晴れやかに笑った。
 そのようなこと、全く、彼女の腹部とは関係がなさそうだった。その腹部がいつまでもふくらんでこないので、知人たちは少し期待外れがした。
 知人たちといっても、三十五歳にもなる彼女の交際だから、男性が相当に多かった。そして男の側には、彼女に関するひそかな噂は、女の側によりも、一層悪い印象を与えた。
「あのひとが愛人を拵えようとどうしようと、それは俺たちの知ったことじゃない。」
 それが最初の意見だった。美枝子は美しかったし、未亡人だったし、無関心に見過せる相手ではなかったが、然し、ただ愛人が出来たというだけで、それが何処の誰だか分らない間は、ただ一種の色気を彼女に添えるに止った。相手がはっきり分れば、おのずから事情は異ってきたろう。
 ところが、噂が一転して姙娠となると、それはもう一種の嫌悪の情を伴ってくる。色気どころか、穢らしいものとなる。そしてこうなると、男は無慈悲なものだ。彼女の腹部がふくれてこないことにも、皮肉な解釈が加えられたのである。
「全くのところ、女というものには油断がならない。秘密に愛人をこさえ、秘密に姙娠し、秘密に事を処理する……つまり、一切のことを秘密に運ぶ能力を、女は持ってるのだ。
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