は、彼女はほんとに頬笑んでいた。
「勿論、ばかばかしいことです。あなたに恋人が出来たとか、どうとか……。」
 浅野はぱっと顔を赤らめた。
「まあ、そんなことですの。それから……。」
 浅野は俯向いて、黙っていた。
「それだけですの、噂というのは。」
「ええ。」浅野は答えた。
「つまらない噂ですわね。それを、あなたはどこでお聞きになりましたの。」
「立花さんの御宅です。御紹介して下すってから、週に一回、やはりお子さんの勉強を見に行っています。なにかお祝いごとがあるらしく、大勢の客がありまして、僕も無理やりにその席へ引張り込まれましたが、その時、縁側にいた二人の御婦人の間に、その噂が囁かれてるのを耳にしました。はっきり名前は出ませんでしたが、たしかにあなたのことに違いなかったようです。」
「分りましたわ。それなら、噂はそれだけではなかったでしょう。」
 浅野は眉をひそめた。
「実は、まだひどいことがあります。あなたが姙娠されてるとかいうような……。」
 美枝子はにっこり頷いた。
「むしろお芽出度い話ですわ。恋人が出来たり、赤ちゃんが出来たり……ふふふ。」
 含み笑いをして、彼女は立ってゆき、ドアわきの呼鈴のボタンを押して、女中に紅茶を言いつけた。紅茶と林檎とが来ると、彼女はまた、紅茶にウイスキーをさして、一匙ずつ嘗めるように味わいはじめたが、ふと、その手を休めた。
「あ、あの方がよろしいかも知れないわ。じきですから、待ってて下さいね。」
 彼女が出て行き、一人になると、浅野は卓上に首を垂れて、両の掌に額をかかえた。戸外に虫の声がするだけの、深い静けさだった。
 銀盆に、ジンフィールのコップ二つと、チーズの小皿。それを美枝子は浅野の前に押しやった。
「お礼のつもりよ。だって、あんな噂のこと、率直にわたしへ言って[#「言って」は底本では「行って」]下すったのは、あなた一人だけですもの。」
 浅野は顔を挙げた。
「奥さん、誤解しないで下さい。あんなこと、僕は全く信じてはいません。だから、ありのまま言えたんです。ただ、腹が立つだけです。僕は長い間、今でも、お宅にはたいへん世話になっています。そしてあなたの名誉を傷つけるようなことを聞くのが、悲しいんです。腹が立つんです。」
「それで、どうすれば宜しいんですの。」
 やさしく頬笑んでる彼女の姿が、浅野には眩しく見えた。
「僕には何も分りません。あなたがたの社会のことは、何も分りません。あんな噂をたてたり、それを面白がって吹聴したり、御当人が笑って聞いていらしたり……僕には何もかも分らなくなりました。そして、悲しいんです。」
 彼はジンフィールのコップを一息に飲み干した。
 美枝子はちょっと宙に眼を据え、立ち上って二三歩あるき、マントルピースの上に、壺や花瓶の間に置き忘れられてる、今はもう用のない白檀の扇を取って、それを無心に眺めながら言った。
「それでは、種明しをしてあげましょうか。あの噂は、わたしが立花のおばさまに頼んで、吹聴してもらったんですのよ。」
「嘘です。ごまかそうとなすってはいけません。」浅野は憤慨したように言った。「あなたがたの悪い癖です。だいたい、みなさんには隙が多すぎるんです。だから、つまらないことが大事に見えたり、大事なことがつまらなく見えたりするんです。あなたも、も少し働いて下さればいいがと、僕はいつも思っていました。室の掃除でもよいし、雑巾がけでもよいし、庭の草むしりでもよいし、針仕事でもよいし、とにかく、働いて下さい。お金持ちであることは構いませんし、お召の着物をふだん着になすってることも構いません。ただ、も少し働いて下さい。夜更しをなさらず、朝は早く起きて下さい。僕なんか、どんなに働いてるか、御想像もつきますまい。そりゃあ、貧乏ですし、住宅がなくて妻は田舎に預けてる始末ですから、働くのが当然ですけれど、然し、働くことの喜びを僕は知っていますし、それに慰められています。働くことの喜び、それを少しでも知っていただけたら、あなたはもっともっと立派になられる筈です。」
「あら、わたしだって、忙しいんですのよ。いろいろな用事を女中に言いつけたり、書生の杉山はいても、法律事務所に午後は通ってますから、午前中に家の用件を済まさしたり、指図だけでもたいへんですわ。」
「その、指図がいけないんです。いつも指図ばかりじゃありませんか。どんな些細なことでもよいから、なにか一つか二つでも、御自分でなさる気はありませんか。交際のことではなく、なにか別なことです。草花を植えるとか、水を撒くとか、そんなことでもよろしいし……。」
「はだしで馳け廻っても……。」
 言いかけて、美枝子は口を噤んだ。浅野は泣いていたのである。瞼にあふれてくる涙をとめかねて、ハンカチで顔を蔽ってしまった。
 美枝子は
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