濶にもあなたの名前を口走り、彼の頬を殴りつけました。あなたの名前を口に出したのは、全く迂濶でしたが、然し私は冷静でありました。あなたに代っての復讐という気もあったのです。
彼は私に抵抗し、組打となりました。一瞬、私には殺意が萌しました。これは重大なことです。然し幸にも、彼は崖から転落して、その下の泥沼にはまり込みました。もし彼が酒に酔っていなかったら、彼は大兵肥満で強力ですから、私の方が締め殺されるか、泥沼に投込まれるかしたことでしょう。
Hは私を知っております。校舎増築のことでです。Hとしては、私をこのまま放任してはおきますまい。必ずや陰険な仕返しをするに違いありません。そうなると、自然、あなたの御名前も出ることになるかも知れません。私はあなたに累を及ぼすことを何よりも恐れます。
私は一方ならぬ恩義を御宅から受けています。然るに、何を以て私はあなたに御報いしたでしょうか。私は自殺をも考えました。然し、それは却って悪結果になるかも知れません。
私はいつも非常な恐怖と悲哀と歓喜とに嘖まれました。自分の道ならぬ恋愛を怖れました。地位や身分や境遇から考えても、いずれは御別れしなければならないと悲しみました。なおそれらを超えて、あなたの愛情に浸ることは天国的な喜びでした。私は深夜、独りで、どんなにか涕泣し且つ絶叫したことでしょう。
然し、もう凡て終りです。現実は苛酷です。私は身を退きます。恋する者にとっては、恋人は神聖無垢なものでなければなりません。私にとってあなたは神聖無垢です。それが、私のために、たとい一点の汚点でも附いたら、私は堪え切れませんでしょう。私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。
私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。妻は理解してくれるでしょう。明朝、学校へは辞表を出します。それから、この手紙を御宅の郵便箱へ届けます。お目にかかる勇気はとてもありません。T様の方へは、よろしく御取りなしおき下さい。
手紙の署名は、ただM・Aとあった。
恒子は大きく溜息をついた。
「ねえ、おばさま、法律か哲学の文章みたいでございましょう。」
恒子は飛びあがって、美枝子の手を押えた。
「これ、ほんとうのことですか。」
「
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