ぴくりと肩を震わした。上目を見据えて考えこんだ。ややあって、浅野の方へ歩み寄り、ソファーに腰を下して、やさしく言った。
「あなたの仰言ること、わたしにもよく分っておりますわ。でも、どうにもならないことだって、ありますのよ。」
浅野はまだ顔を挙げなかった。
「それにしても、ずいぶん思い切ったことを仰言ったわね。だから、わたしの方でも、思い切ってお頼みがありますわ。聞いて下さいますか。」
浅野は鼻をかんで、眼を挙げた。その前へ、美枝子はジンフィールの残りの一杯をつき出した。
「これをお飲みになってから……。」
浅野は茫然とした面持ちで、その通りした。
「わたしね、いちど、男のかたの頬ぺたを、思いきり引っ叩いてやりたいの。あなたの頬を打たせて下さい。その代り、私の頬を打たせてあげます。」
声は少し震えていた。
浅野は殆んど無意識に応じた。
「さあどうぞ。」
彼は眼をつぶって、頬を差し出した。
一瞬の躊躇の後、美枝子は平手で、浅野の頬をはっしと打った。薄い硝子のような音がした。
「ありがとう。」泣いてるような声だった。「こんどはあたしのを、どうぞ。」
彼女は眼をつぶった。すっきりした細い眉、すこしふくれ気味の瞼、長い睫毛がちらちら震えていた。
「どうぞ。」彼女は促した。
浅野は静かに膝をついて、彼女の腿に顔を伏せた。かすかな香りが、鼻にではなく心に沁みた。
「僕には出来ません。」彼はすすり泣いた。「出来ません。許して下さい。」
美枝子はまだ眼をつぶったまま、両手をのべて、彼のこわい髪をそっと撫でた。
「奥さん、許して下さい。僕はあなたを、心から慕っておりました。」
ひっそりとした美枝子の体が、一つ大きく息をし、椅子の背に反り返っていった。浅野は半身を起して、その胸の方へ、唇の方へ、のりだそうとした。それを、美枝子は手で遮り、頭を振った。
「今は、いけません。」彼女は彼の耳元に囁いた。「これから、わたし、英語の勉強をはじめますから、面倒みて下さいね。書斎の方をわたしの居間みたいにしています。こんどから、あちらで……。」
彼女はすりぬけるように立ち上り、すーっとドアの方へ行き、呼鈴のボタンを押した。
十一月にはいると、菊花鑑賞に事よせて、あちこちでティー・パーティーが催された。戦争前、新宿御苑で観菊の招宴があった、それに做ったものである。もっとも、こ
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