も分りません。あなたがたの社会のことは、何も分りません。あんな噂をたてたり、それを面白がって吹聴したり、御当人が笑って聞いていらしたり……僕には何もかも分らなくなりました。そして、悲しいんです。」
彼はジンフィールのコップを一息に飲み干した。
美枝子はちょっと宙に眼を据え、立ち上って二三歩あるき、マントルピースの上に、壺や花瓶の間に置き忘れられてる、今はもう用のない白檀の扇を取って、それを無心に眺めながら言った。
「それでは、種明しをしてあげましょうか。あの噂は、わたしが立花のおばさまに頼んで、吹聴してもらったんですのよ。」
「嘘です。ごまかそうとなすってはいけません。」浅野は憤慨したように言った。「あなたがたの悪い癖です。だいたい、みなさんには隙が多すぎるんです。だから、つまらないことが大事に見えたり、大事なことがつまらなく見えたりするんです。あなたも、も少し働いて下さればいいがと、僕はいつも思っていました。室の掃除でもよいし、雑巾がけでもよいし、庭の草むしりでもよいし、針仕事でもよいし、とにかく、働いて下さい。お金持ちであることは構いませんし、お召の着物をふだん着になすってることも構いません。ただ、も少し働いて下さい。夜更しをなさらず、朝は早く起きて下さい。僕なんか、どんなに働いてるか、御想像もつきますまい。そりゃあ、貧乏ですし、住宅がなくて妻は田舎に預けてる始末ですから、働くのが当然ですけれど、然し、働くことの喜びを僕は知っていますし、それに慰められています。働くことの喜び、それを少しでも知っていただけたら、あなたはもっともっと立派になられる筈です。」
「あら、わたしだって、忙しいんですのよ。いろいろな用事を女中に言いつけたり、書生の杉山はいても、法律事務所に午後は通ってますから、午前中に家の用件を済まさしたり、指図だけでもたいへんですわ。」
「その、指図がいけないんです。いつも指図ばかりじゃありませんか。どんな些細なことでもよいから、なにか一つか二つでも、御自分でなさる気はありませんか。交際のことではなく、なにか別なことです。草花を植えるとか、水を撒くとか、そんなことでもよろしいし……。」
「はだしで馳け廻っても……。」
言いかけて、美枝子は口を噤んだ。浅野は泣いていたのである。瞼にあふれてくる涙をとめかねて、ハンカチで顔を蔽ってしまった。
美枝子は
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング