額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
彼は靠《もた》れかかってくる妻を両手のうちに強く抱きしめた。それでいい、それでいい、と彼は心の中でくり返した。よし過去に於てたえ[#「たえ」に傍点]子が叔父を愛したと仮定し、そして今告別のキスを与えたとするならば、彼は尚一層悲痛に彼女を愛するであろう。然しそれは長く彼の心にある陰影を投じないであろうか? それでいい! と彼はも一度心に叫んだ。
「嫂《ねえ》さん! 嫂さん。」と向うの室で葉子の呼ぶ声がした。
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。
一人になると、彼は今したことをじっと見守っていたも一つの自分というものが返って来たような気がした。それで室から紙巻煙草を取って来てそれに火をつけ乍ら、庭に下りた。
午後に曇った空はまた何時の間にか美しく晴れ渡っていた。月の無い暗い空に星が燦然と輝いて、久遠の進路《コオス》を大なる弧を画きつつ辿っていた。地上の深い静寂の上に今天体の悠久なる律動が力一杯に徐々と押し移っているのである。彼は空を仰ぎ、そしてま
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