うな苦悩の形をとって彼の心を飜弄した。
と突然、騒然たる楽の音がして、妻はピアノを離れ、彼の傍の長椅子に身を投げた。
「何だか指が思うように動きませんので。」と彼女は云った。
彼は彼女の敏感に驚いた。そして早く止《よ》してくれたことを心のうちで感謝しながら、そっと彼女の指先を握りしめた。まだじっと画面を見つめていた叔父が眼をそらしてこう云った。
「久しぶりで音楽をきくと妙な気がするもんだね、何だか過ぎ去った時というものが逆にもどるようで。」
「嫂《ねえ》さん、も一つ弾《ひ》いて頂戴な。」と葉子がせがんだ。
「お前弾いてごらんよ。もう大分お上手になったんだろう。」と彼が云った。
「うそよ。」と葉子は黙ってしまった。
妙な興奮したような沈黙が続いた。何時の間にかついた電燈の淡い光りが、彼等の思いをちぎれちぎれに遠い空間へ運んでいった。
「叔父さん、」と彼が口を開いた。「京都《あちら》でも度々音楽をお聞きになりますか。」
「いや、第一、機会が少いし、それにわざわざ出かけて行って聞く程の勇気もないからね。」
それから彼等はすぐ夕食の膳についた。叔父は極めて少食であった。
その晩四人で
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