懸っている二三の額縁《がくぶち》を見守った。その一つにダヴィンチの「最後の晩餐」の大きな模写があった。彼の好みで塗らせた草色の壁の反射のうちに、キリストの胸のあたりが仄かな紫の色を帯びて光っていた。
「君は聖書を読んだことがあるだろう。」と突然叔父は尋ねた。
「ええ、ずっと前に。」
「どうだった?」
「どうって、そうですね、旧約の或る部分や約翰《ヨハネ》伝などには大部面白い所があったように記憶しています。叔父さんはあんなものをお読みになるんですか。」
「僕の知人に熱心な信者が居てね、是非読んでみろって勧めるから、少しばかり見たんだが、さっぱり面白くないね。」
「ええそれはそうでしょう。」
「何が?」
「いえ、叔父さんには植物の研究の方が面白いでしょうと思って……。」
「面白いね。」
それから叔父は種々な地衣科植物についてその微妙な作用を話して聞かせた。西嵯峨野に近来妙な苔が発生して、其処には凡ての雑草が枯れつくして、只|車前草《おんばこ》ばかりが繁茂する、そしてその苔は車前草の下葉を地面に吸い附けて、地面と葉との間の狭い空間に生息する。その葉が枯れると又新らしい葉を吸い附けるんだそう
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