何よりも梧桐が一番早く伸びますよ。」
「そうだね。」と云って叔父はやはりじっと庭を見ていた。
午後になって薄い雲が空を蔽うた。淡い日光が物の輪廓を朧ろに暈《ぼか》して、物影に青白い明るみを澱ました。彼は一人書斎に退いて、何処から来るとも分らないような雀の囀りを聞いていた。「やはり少し汽車に疲れたようだ。」とそう云った叔父は、あの室で毛布にくるまり乍ら白日《まひる》の微睡《まどろみ》をソファアの上に貪っているらしい、と彼は思った。その白い毛布の中の窶《やつ》れた顔の影像が、遠い昔の人を見るような果敢なさで彼の心に迫った。
彼は初め叔父を見た時から何かがしきりに感染して来るような気がしていた。その漠然としたものが次第にある中心を定めて凝結して来た。其処に先刻叔父が話した尼僧の生活と云ったようなものがあるように思えた。只一人離れてじっと何か淡々しいものに浸り乍ら眼を見開いていたい、というふうな感情が彼の心に甘えていた。
叔父は勿論只単にたえ[#「たえ」に傍点]子のために来たのでもない、と彼は思った。また単に彼自身のために来たのでもない。彼とたえ[#「たえ」に傍点]子との間に醸される雰囲気に身を浸して、過去の思い出に今一度ヒロイックな美しい感銘を与えんとて来たのであろう。然し叔父は後で却ってそれを後悔するようにならないであろうか? 何故《なぜ》なら、彼はじっと眼を瞑ってみた。何故なら、彼もたえ[#「たえ」に傍点]子も二人共探るような眼で叔父の心を見つめているではないか。叔父はそれに気が附くであろう。否もうそれを知っているかも知れない。そして?……
彼は自分の心を衆《みな》から離れた遠い所に置いて、其処から今一度病める叔父とたえ[#「たえ」に傍点]子と彼自身と三人鼎坐している情景《シイン》をふり返ってみた。すると自分一人が其処から遠く遠く離れて行くような気がした。
彼は立ち上って室の前の廊下に出て、窓を開き乍ら下の庭面に眼をやった。曇り空の明るみが庭一面に澱んで、そよともしない新緑の樹々の間を奥深く見せていた。冬のような日の光りだと彼は思った。そして萠え出たペンペン草の長い茎を見守っていた。
その時木立の間に叔父の姿を見出して、後は我知らず身を引いた。それから又そっと覗いてみた。叔父は学校から帰って来た末の妹の葉子《ようこ》と何やら話し乍ら歩いている。少し俯向き加減に懐手をし乍らゆっくりと歩いている。葉子が何やら時々くすくすと笑っているらしい。彼はその影の無い痩せた姿を痛ましそうに見守っていた。
「あら兄さんが!」そう云った妹の声に彼は駭然とした。同時に叔父が黙って彼の方を見上げた。彼はしいて顔面の筋肉を弛《ゆる》めてこう云った。
「お眠りになれませんでしたか。」
「ああ何だかね……でも昼寝より歩いている方がいいようだ。」
「こちらへいらっしゃいませんか。」
「そう、君の書斎を拝見しようかね。」
「あたしも行ってよくって?」とその時葉子が大きい声をした。
「そうね、まあお前は来ない方がいいようだね。」
「意地わる根性!」と葉子は睨むような眼附をした。「いいわ、嫂《ねえ》さんに云いつけるから。」
間もなく叔父はその高い姿を彼の書斎に現わした。彼は室の中に椅子を据えて其処に招《しょう》じた。何処か心の底に堅くなったもののあるのを自らにもおし隠すようにして。
「此の頃は何か研究でもやってるのか。」と叔父が云った。
「研究という程のこともないんですが、少しずつ書物を読んでいます。」
叔父は書棚にぎっしりつまった洋書や和書を見廻わして、それから壁に懸っている二三の額縁《がくぶち》を見守った。その一つにダヴィンチの「最後の晩餐」の大きな模写があった。彼の好みで塗らせた草色の壁の反射のうちに、キリストの胸のあたりが仄かな紫の色を帯びて光っていた。
「君は聖書を読んだことがあるだろう。」と突然叔父は尋ねた。
「ええ、ずっと前に。」
「どうだった?」
「どうって、そうですね、旧約の或る部分や約翰《ヨハネ》伝などには大部面白い所があったように記憶しています。叔父さんはあんなものをお読みになるんですか。」
「僕の知人に熱心な信者が居てね、是非読んでみろって勧めるから、少しばかり見たんだが、さっぱり面白くないね。」
「ええそれはそうでしょう。」
「何が?」
「いえ、叔父さんには植物の研究の方が面白いでしょうと思って……。」
「面白いね。」
それから叔父は種々な地衣科植物についてその微妙な作用を話して聞かせた。西嵯峨野に近来妙な苔が発生して、其処には凡ての雑草が枯れつくして、只|車前草《おんばこ》ばかりが繁茂する、そしてその苔は車前草の下葉を地面に吸い附けて、地面と葉との間の狭い空間に生息する。その葉が枯れると又新らしい葉を吸い附けるんだそう
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