「たえ」に傍点]子の手からそれを見せて貰ったことをとうとう隠してしまったのである。
「お前からも叔父さんに手紙を書いたことはないんだね。」と彼は云った。
「ええありませんわ。なぜ?」
「ああそれでいいんだよ。」
「え?」と云って彼女は彼の顔色《かおいろ》を窺った。そしてこうつけ加えた。「あなた何か変なことを考えては被居らなくって?」
「何にも考えてなんか居ないよ。……叔父さんは俺達の恩人なんだね。」
「ええそうよ。たんと御馳走してあげましょうね。」
 そして二人はわけもなく微笑んでしまった。
「ほんとに御心持ちのいいようにしてあげなくてはいけないよ。」暫くして斯う彼は云った。

 叔父の来着を女中が彼の許に報じたのは十一時頃であった。
 彼は立ち上って、窓から青い空をすかし見た。一寸眉を聳《そびや》かして大きい呼吸をしてみた。心の底の或る堅くなっている思いをじっと押えつけるようにして。それから客間に入った。妻が叔父を其処に案内したばかりの所であった。
「大分お待ちしていました。」と彼は云った。
「こちらへは九時に着いたんだが、暫く郊外を歩き廻っていたのだから遅くなってすまなかったね。」
 彼は叔父の顔を見守った。以前何処かやさしい女らしい所のあった顔が、瞑想的に引きしまっているのを彼は見た。そして何か見馴れない表情のあるのを発見して不思議相に見つめていた。
「なぜそう黙って僕の顔を見ているんだい?」と叔父が云った。
 その時彼は初めて短く鼻髭を伸《のば》してあるのに気附いた。それで微笑んでこう云った。
「何処か見馴れない所があると思いましたら、髭をお伸しなすったんですね。」
「おやそうでしたのね。私も何だか変だと思っていましたの。」とたえ[#「たえ」に傍点]子が云った。
「ああこれか」と云って叔父は苦笑した。「今気が附いたのか、君達も随分呑気だね。」
 叔父は問われるままに京都の種々な話をした。旧御所の中の編笠をかぶってお化粧した掃除女の群や、清水《きよみず》の茶店を守っている八十幾歳の老婆の昔語りや、円山公園の夜桜、それから大原女《おはらめ》の話、また嵯峨野の奥の古刹から、進んでは僧庵や尼僧の生活まで。そしてこうつけ加えた。
「一体彼等の、特に尼僧の生活には矛盾があるようだね。彼等は静かな勤行《ごんぎょう》の生活のうちに、過去のなつかしい思い出を深く深く掘ってゆく。その思い出が親しくなり美しくなるに従って、それを寂滅為楽の途に進むことと思っているらしいんだ。そして遂には前に進むことを知らないで、過去へ過去へと全く向き返ってしまって退くばかりなんだね。」
「それでは時《タイム》というものを全く征服してしまったのではないでしょうか。」
「そうも云えるだろうが、また反対に時に征服されたんだとも云えるだろうね。」
 彼は叔父の語る所に先刻から何かの強い意志の籠っていることを感じていた。それで煙草をすすめてみた。
「僕はすっかり煙草は止《よ》してしまったよ。」こう云って彼は淋しい微笑を顔に漂わした。
「お身体《からだ》でも悪くて被居るのですか。」とたえ[#「たえ」に傍点]子が尋ねた。二人共叔父が時々軽い咳《せき》をしているのに気附いていた。
 叔父の語る所によると、彼は大分前から肺を侵されているとのことである。自分では時々肩の凝《こ》りを感ずる位だけど、医者の言によれば右肺に大分|浸潤《しんじゅん》があるらしい、そして激変を憂うるとのことである。
「それでは会社の方もお止めなすったら。」
「なに、人間は何かしていないと淋しいからね。」と彼は云った。それから急に調子を低くして、「実は旅も医者の方から禁ぜられているんだけれど、悪くなる前に一度君達にも逢いたいと思ったものだからね。」
 凡てのことがはっきり分って来たように彼には思えた。憐れむのでも同情するのでもなく、ただじっと叔父の心を見つめているような心地で、彼はその顔の淋しい陰影を見守った。
「それでは四、五日ゆっくり休んでいらっしたらいいでしょう。」
「いや後でまた医者に叱られるといやだからね。」そして叔父は他愛なく笑った。「それに種々な雑務もひかえているんだから。」
「ではあの父が居た室が今あのままになっていますから、お嫌でなかったらゆっくりと疲れをお休めなすったらいいでしょう。」
「ああそれは結構だね。然し別に病人というんではないから、どうかかまわないでおいてくれ。その方が自由でいいからね。」
 それで彼は妻と一緒に、もと父が居た部屋を清めて、窓際に柔かなソファアを据えたり、卓子《テーブル》の上に美しい水菓子を並べたりした。叔父は黙って窓から庭の植込みを見ていた。
「あの木は暫く見ないうちに随分大きくなったもんだね。」と云って青々とした芽を出している梧桐《あおぎり》を指した。

前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング