である。そして叔父はこう結んだ。「自然のものの意志を微細に研究すると、又別な世界が開けるようだね。」
「叔父さんのは素人《アマトウル》の研究だから一層興味が深いんでしょう。」
「そうだね。でも僕は凡てのことに余り素人すぎるんではないかと思うよ。」
「そうでもないんでしょうけれど……。」と云いかけて彼は口を噤《つぐ》んだ。妙にうち解け難いものがちらと感じられたので。そしてこう云ってみた。「メェテルリンクにランテリジャンス・デ・フルウル――花の知能、という面白い書物がありますよ。英訳がありますから読んでごらんなすったら。」
「そうか。」と云ったまま叔父はそれを深く尋ねようともしなかった。
沈黙が続いた。そして二人の間に重苦しいものが置かれた。彼は耳を澄して何かをじっと聞きとろうとするような心地で居た。昼の光りが次第に移って淡くなるのが見えるように思えてきた。二人共離ればなれに居て、それで同じものを別々の眼で見守っているような心持ちが、はっきりと彼の心に映った。その時叔父が突然こう云った。
「あまり急にやって来たんで、少し驚かしたのではないかね。」
「いいえ、朝のうちにお手紙を戴きましたから。それでもお手紙を拝見しました時は、少し意外でしたけれど。」
「何しろ僕も急に思い立ったんだからね。実は身体《からだ》の方も気にかかっていたし、此機をのがしてはまた来られそうもないと思ったものだから。」
「そんなにお悪いのですか。」
「自分では分らないが、何しろ医者がひどく云うんだからね。」
彼は叔父の顔を見守った。そしてその眼に何か云い出しかねているような思いの潜んでいるのを見た。
「お手紙にあったことは本当ですか。」
「偽りは少しも書かなかったつもりだが。」
「特別の御用件が無いというのも。」
「そうだ。只一寸君達に逢ってみたいということの外はね。」
「お出でなすって何か御不満はありませんでしたか。」
「君は何時もそんな風に物を考えるからいけないんだ。僕の心はよく君に分っている筈だ。そして君の心も僕には分っているつもりだ。……叔父が甥の家を訪《たず》ねたからって何も不思議はないだろう。それでいいんだ。」
「ええ、ですけれど、私は何だか客をとりもつことを知らないものですから、御退屈ではないかしらと思って……。」
「なにその方が気がおけなくていいんだ。」そう云って叔父は快活そうに笑った。
それで彼も漸く心が落ち着けたように思った。これだけ云ってしまえばもう何にも云うことは残っていないような気がした。それで画集などを開いて見せた。
「裸体画が大分多いようだね。」
「ええ。」と云って彼は微笑んだ。
その時ピアノの音が響いて来た。叔父は一寸耳を傾けて聞いているようだった。彼は叔父がよくたえ[#「たえ」に傍点]子の奏《かな》でるのを喜んできいたことを思い出した。それでこう云った。
「あちらへお出でになりませんか。」
「そうだね。」と云って叔父は一寸躊躇した。
それは丁度たえ[#「たえ」に傍点]子と葉子と二人でピアノの側に立ち乍ら何やら笑い興じている所であった。二人共喫驚したように眼を見開いて彼等を見守った。
「叔父さんのために何か弾いてごらん。」と彼は妻に云った。
「もうすっかり忘れてしまったんですもの。」
「うそよ!」と葉子が云った。「弾かないって法はないわ。」
それで皆笑ってしまった。そしてたえ[#「たえ」に傍点]子は指を鍵盤に置いた。彼女は特にベエトオヴェンのソナタ第二部のうちから天真《ナイブテ》なものを選んだ。
彼は始め彼女の側からかすかに見える白い指先の走るのを見守った。それから静かなる旋律《メロディ》のうちにひたすらに身を浸さんとした。然し彼は知らず識らずに叔父の方へ注意を引かれた。叔父は彼女の肩のあたりを見守っていたが、それから視線を移してじっと上眼に壁の中間に懸っている風景画に眼をすえた。彼女は何処か急《せ》いた調子があった。最も自然に無邪気《インノオセント》なるべき諧調のうちに含まれる心《ハアト》を披瀝した宗教的気分が、かすかな指の狂いに乱さるる所が往々にしてあった。それを知ってか知らないでか、叔父はやはりじっと風景画に眼を据えていた。一つのソナタを終えて続け様に、も一つのソナタに進んだ時、叔父の顔にかすかな痙攣が見えた。それが彼の心にある特殊の苦悶を伝えた。彼は音楽の曲も、殆んど耳には入《はい》らないで、大きい樫の木立が並んだ画面に見入った。そして叔父のそれを見つめている心持ちが分って来たような気がした。画面から来る崇高なる感じと、叔父に対する悲壮なる感じとの合間合間に、高尚なそして無邪気な恍惚《エクスタシイ》のソナタの旋律が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まる。それが魅せられたよ
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング