うな苦悩の形をとって彼の心を飜弄した。
と突然、騒然たる楽の音がして、妻はピアノを離れ、彼の傍の長椅子に身を投げた。
「何だか指が思うように動きませんので。」と彼女は云った。
彼は彼女の敏感に驚いた。そして早く止《よ》してくれたことを心のうちで感謝しながら、そっと彼女の指先を握りしめた。まだじっと画面を見つめていた叔父が眼をそらしてこう云った。
「久しぶりで音楽をきくと妙な気がするもんだね、何だか過ぎ去った時というものが逆にもどるようで。」
「嫂《ねえ》さん、も一つ弾《ひ》いて頂戴な。」と葉子がせがんだ。
「お前弾いてごらんよ。もう大分お上手になったんだろう。」と彼が云った。
「うそよ。」と葉子は黙ってしまった。
妙な興奮したような沈黙が続いた。何時の間にかついた電燈の淡い光りが、彼等の思いをちぎれちぎれに遠い空間へ運んでいった。
「叔父さん、」と彼が口を開いた。「京都《あちら》でも度々音楽をお聞きになりますか。」
「いや、第一、機会が少いし、それにわざわざ出かけて行って聞く程の勇気もないからね。」
それから彼等はすぐ夕食の膳についた。叔父は極めて少食であった。
その晩四人で集って、トランプを弄んだり、雑談をしたりして十時近くまで遊んだ。叔父が時々咳をするので、「もうお休みなすったらいいでしょう、」と彼は云った。
「そうだね。」と叔父は低い返事をした。
「叔父さんが一番負けね。」とトランプを片附けていた葉子が残りおしそうにして云った。
叔父が立って行った時、「見ておあげよ。」と彼は妻に云って、それから縁側に出てみた。
庭の樹影がかさかさと揺いだので後は耳を澄すと、あたりが寂然と静まり返った。その沈黙のうちに、何かが物影からじっと彼の方へ窺い寄ろうとしているのを感じた。それで縁側を歩き廻って、自分にも分らない妙に興奮した考えを振り落そうとするように肩を引きしめてみたりした。丁度柱時計が十時を打って、その空粗《ラッフ》な響きが室の中に鳴り渡った。それを静寂な夜が四方から押えつけている。彼は廃墟の跡を訪うような気分に包まれて、今一度遠い昔の世をふり返ってみるような心地で、我知らず長い間立ち尽していた。
その時廊下の向うに足音がした。たえ[#「たえ」に傍点]子であった。彼女は薄明るみの中をすかし見て、夫の姿を認むるや否や殆んど駈けるようにして彼の許に身を寄せた。
彼女の眼が光っていた。彼は薄明りにその意味をよむことが出来なかった。それでそっと妻の肩に手を置いて、こう云った。
「叔父さんは?」
「おやすみなすったでしょう。」
肩に置いた手にその低い声が震えるように感ぜられた。彼は今一度妻の顔を凝視した。
「叔父さんは何とも仰言らなかったのかい。」
「いいえ。」そして彼女は一寸息を休めた。「ただ、すっかり以前と様子が変ったねってそう仰言って、私の顔をじいっと見つめていらしったの。私はそれから何か仰言るのかと思って黙っていましたら、何時までたっても何とも仰言らないのですもの。それで顔を上げると、叔父さんは窓越しに外の方を見ていらっしたの。だから私、おやすみなさいませと云って出て来ました。でも……私何だか妙な気がしましたの。」
「それっきり?」
「ええ。」
悲愴《パセティック》な震動が彼の心に伝わった。意味の分らないヴェールがふわりと下りて来て、その中に自分というものが朧ろ朧ろになってゆくような気がした。そして何か別の透徹したものが彼の頭に入って来た。
「お前は臆病だね。」
「え?」と彼女は顔を上げて彼の眼を見守った。
「そんな時にはそっと額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
彼は靠《もた》れかかってくる妻を両手のうちに強く抱きしめた。それでいい、それでいい、と彼は心の中でくり返した。よし過去に於てたえ[#「たえ」に傍点]子が叔父を愛したと仮定し、そして今告別のキスを与えたとするならば、彼は尚一層悲痛に彼女を愛するであろう。然しそれは長く彼の心にある陰影を投じないであろうか? それでいい! と彼はも一度心に叫んだ。
「嫂《ねえ》さん! 嫂さん。」と向うの室で葉子の呼ぶ声がした。
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。
一人になると、彼は今したことをじっと見守っていたも一つの自分というものが返って来たような気がした。それで室から紙巻煙草を取って来てそれに火をつけ乍ら、庭に下りた。
午後に曇った空はまた何時の間にか美しく晴れ渡っていた。月の無い暗い空に星が燦然と輝いて、久遠の進路《コオス》を大なる弧を画きつつ辿っていた。地上の深い静寂の上に今天体の悠久なる律動が力一杯に徐々と押し移っているのである。彼は空を仰ぎ、そしてま
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