父が出立を誤らなかったというのは。その先を考えて彼はじっと眼を伏せた。
「何だ?」
「いえ、私もそうですが、叔父さんもお弱いようですね。」
「そう、自分でそんな風に考える時もあるよ。」
それきり二人は黙ってしまった。彼は我知らず一人で儚《はかな》いものの方へと思いを馳せた。人性の底を流るる情操が如何なる形式のものであろうと、それをいたわろうとする所に常に残る痛々しい感情などを。
叔父は暫く沈黙のうちに彼と並んで歩いていたが、急に足を止めた。
「どうかなすったのですか。」
「なに少し寒けがするようだから。」
「ああ、あまり長く外に居すぎたようですね。お身体に障るといけませんから。」
「いや、そんなでもないんだが……。でも今夜はお互にはっきりした話が出来て大変愉快だった。」
家に入《はい》って電気の光りで見ると、叔父の頬が堅く引きしまっているのに彼は気附いた。そして心持ち青白くなっているのを。彼はその冷たそうな顔を暫く見守っていたが、やがて丁寧に頭を下げた。
「御悠《ごゆっく》りとお休みなすって下さい。」
そして彼は叔父が扉《ドア》をしめた音を暫く其処に佇んで聞いていた。
朝寝の習慣がついてしまっていたので、翌朝彼が起き上ったのはやはり太陽が高く上った後であった。そよそよと風に揺ぐ新緑の葉の一つ一つに日光が輝いて、そして雀の群が楽しい叫び声で呼び交していた。
「叔父さんは?」と彼は女中にきいた。
「早くから、野原に出て来ると仰言いまして御出かけになりました。」
彼は庭に出て新鮮な空気を吸い、そして室に帰って叔父を待った。昨夜のことが夢のようにかすんでゆくのを、追《お》っかけるようにして心のうちに回想してみた。追憶がやさしい形を取って、現在の自己と何等交渉のないような朧ろなものを見せてくれた。その中に北斗星が明瞭《はっきり》と光り輝いて彼の頭に映じた。
其処に叔父が何処か晴々とした顔をして帰って来た。凡てを忘れたもののようにして、そして長い間の親しみを持ったもののようにして。
「よく御眠りになりましたか。」
「ああ。今朝は大変気持ちがいいね。」こう云って親しい笑顔《えがお》を見せてくれた。
朝とも午《ひる》ともつかぬ食事をしてから、叔父は三時五十分ので発《た》つと云い出した。せめて葉子が帰ってくるまで、と云って皆でとめた。そして彼とたえ[#「たえ」に傍点
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