忘れた。彼は其処に只一人の人間を見た、病に寿命を縮められた人を、昔の恋人たりし人妻の家に遙々訪れて来た人を、そしてまた自分の敬愛する一人の畏友を。
「あなたは、」と彼は云った。「御病気なすってから何か人生観というようなものがお変りにはなりませんでしたか。」
「そう、むずかしいことは分らないが、物の見方というようなものは変化したようだね。」
「どんな風になんです?」
「何でも僕は先へ先へと考えすぎたようだね。所が病気をしてからは過去を振り返ってみるようになったような気がするよ。それが他《ほか》の事物を見る時にまで伝染して来たようだ。まあ云ってみれば、植物を研究するんでも発生的の方面をばかり見ようとする傾向が嵩じてきたようだ。保守なんだね。」
「中年に入《はい》られようとする故《せい》もあるでしょう。」
「そうだね。病気と云っても僕のはまだ自分でそう悪くは感じないんだから。」
「私なんかも、少し身体の加減がよくない時には妙に引き込み思案になりますが、平素はあまり先へ先へと急ぎすぎて、何にも掴まないうちに凡てを通り越すんじゃないかとよく思います。」
「それでいいんだろう。」と一寸叔父は言葉をとぎらして、また言葉をついだ。「君の家へ来てから特に僕はそう思うよ、君の生活と僕の生活とが余りにかけ距《へだ》っているというようなことをね。何しろ君の家には若い者ばかりなんだからね。」
「何かお気を悪くなさるようなことはありませんでしたか。」
「君もよほど神経過敏の方だね。」と叔父は笑った。
「でも何だか当《あて》が外《はず》れたというような御不満がありませんでしたか。」
「少しは……そう云えばそんな感じもあるね。」
「あなたは私達の恩人だと思っていますから……。」
「僕はもうそんなことは考えてなんぞ居ないよ。」と突然叔父が遮った。
「いえ、私はいつかほんとに心から叔父さんに感謝したいと思っていました。そしてまた、叔父さんの生活が非常に崇高なもののように思えますので、いつかゆっくり御話がしてみたいと思っていたのです。」
「君達はあれからずっと幸福なんだろうね。」
「ええ。そして私はまたある意味で叔父さんも幸福でしょうと……幸福であらるるようにと祈っていました。」
「幸福と云えば僕はやはり幸福だよ。誤った出立をしなかったと思うからね。」
「ええ。然し……。」と云って彼は口を噤んだ。今の叔
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