った。
 それで彼も漸く心が落ち着けたように思った。これだけ云ってしまえばもう何にも云うことは残っていないような気がした。それで画集などを開いて見せた。
「裸体画が大分多いようだね。」
「ええ。」と云って彼は微笑んだ。
 その時ピアノの音が響いて来た。叔父は一寸耳を傾けて聞いているようだった。彼は叔父がよくたえ[#「たえ」に傍点]子の奏《かな》でるのを喜んできいたことを思い出した。それでこう云った。
「あちらへお出でになりませんか。」
「そうだね。」と云って叔父は一寸躊躇した。
 それは丁度たえ[#「たえ」に傍点]子と葉子と二人でピアノの側に立ち乍ら何やら笑い興じている所であった。二人共喫驚したように眼を見開いて彼等を見守った。
「叔父さんのために何か弾いてごらん。」と彼は妻に云った。
「もうすっかり忘れてしまったんですもの。」
「うそよ!」と葉子が云った。「弾かないって法はないわ。」
 それで皆笑ってしまった。そしてたえ[#「たえ」に傍点]子は指を鍵盤に置いた。彼女は特にベエトオヴェンのソナタ第二部のうちから天真《ナイブテ》なものを選んだ。
 彼は始め彼女の側からかすかに見える白い指先の走るのを見守った。それから静かなる旋律《メロディ》のうちにひたすらに身を浸さんとした。然し彼は知らず識らずに叔父の方へ注意を引かれた。叔父は彼女の肩のあたりを見守っていたが、それから視線を移してじっと上眼に壁の中間に懸っている風景画に眼をすえた。彼女は何処か急《せ》いた調子があった。最も自然に無邪気《インノオセント》なるべき諧調のうちに含まれる心《ハアト》を披瀝した宗教的気分が、かすかな指の狂いに乱さるる所が往々にしてあった。それを知ってか知らないでか、叔父はやはりじっと風景画に眼を据えていた。一つのソナタを終えて続け様に、も一つのソナタに進んだ時、叔父の顔にかすかな痙攣が見えた。それが彼の心にある特殊の苦悶を伝えた。彼は音楽の曲も、殆んど耳には入《はい》らないで、大きい樫の木立が並んだ画面に見入った。そして叔父のそれを見つめている心持ちが分って来たような気がした。画面から来る崇高なる感じと、叔父に対する悲壮なる感じとの合間合間に、高尚なそして無邪気な恍惚《エクスタシイ》のソナタの旋律が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まる。それが魅せられたよ
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