がそれもまた瞬間で、彼女は額をそむけて、芋の方にかかった。
 彼は狼狽した気持ちになり、眉をしかめて、手摺を指先で打ちたたき、それから煙草を吸った。彼女の仕事は終った。
「失礼致しました。」
 はっきりした挨拶、だが、にっこり笑った。そして彼女はそこを去った。
 その最後の笑顔に、山口はすがりついた。
 山口が彼女と相対したのは、その時が最も長かった。其後は、波多野邸で数回顔を合せたきりで、ゆっくり話す隙はなかった。けれど、彼女は彼に対して、つめたくはあるがやさしい笑顔を見せるようになった。その笑顔と、美しい指と、瞬間的な不思議な表情とは、しばしば彼の頭に蘇ってき、やがては胸の奥に頻繁に蘇ってきた。そこで彼は自分は恋をしているのだと自認した。
 この恋は至って清らかなものである筈だった。彼女の指も、不思議な表情も、冷かなほどの清い美しさを持っていたし、その笑顔に妙なつめたさがあるのも、清いからに外ならないと彼は思った。そして、恋人の清い息吹きにふさわしいだけの清さに、自分の心身を維持してゆかねばならぬと、彼は考えた。
 心の清らかさについては、彼は自信があった。身体の清らかさについても
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